ほぼひとりごと 2021年9月30日(木)

VAN

(写真は、青山通り、表参道と外苑前の間にあるVANショップ。ささやかに営業中です)

小学校高学年のころ、新宿伊勢丹にボーイズショップが登場しました。しゃれっ気が出て、半ズボンでの通学が嫌だなと思う頃でした。ボーイズショップは、日本橋三越や渋谷東急百貨店にはありません。

ボーイズショップの主流はIVY。チェックのボタンダウンシャツやチノパンツ、コインローファーなど、住宅地の用品屋さんや靴屋さんにはない品揃えでした。その代わり、商店街にくらべて高い値段です。

中学から高校のころがVANの最盛期。VANの袋を持って歩くのがあこがれでした。流行を先導していた団塊の世代が中心で、少し下の世代の我々は、IVYの教科書メンズクラブを見て学習しました。

住宅地にある洋品店より値段が高かったので、気軽には買えない高嶺の花でしたが、普及して、いろいろなところにVANショップが出来るようになると、バーゲンセールも始まるようになりました。

団塊の世代が学生運動を経験したあと普通の社会人に変身したころ、一世を風靡したVANのブランドは商社に変われ、投げ売りが増え、次第にブランドイメージがなくなっていくようになりました。

そのうち、経営自体が行き詰り、過去のブランドとして細々と営業を続けているという状態でしたが、少しだけ盛り返し、団塊の世代の大人買いを狙ったのか、値段も上げ、デパートにも出ています。

根強いファンはいるようで、青山通りに面した小さなビルの中、お兄さんブランドのKentのロゴを前面に出したVANショップが営業中です。いつか、もう一度行ってみようかなと思っています。

#VAN #KENT #アイビールック

ほぼひとりごと 2021年9月29日(水)

玉川上水

小学生のころ、新宿から京王電車に乗って、下高井戸で玉電(世田谷線)に乗り換えて家に帰ると、甲州街道から、玉川上水に沿った専用軌道に入るあたりの右側の車窓にガスタンクが見えてきました。

大きなガスタンクはこちらに迫って来るようで、怖かった記憶があります。円筒形のタンクはなかなか小さく見えるようにはなりませんでした。西参道の踏切を越え、電車が初台駅に近づくとホッとしました。

京王線が地下を走るようになって60年近く、ガスタンク跡は東京瓦斯が事業主体となったパークタワーになり、文化学園も建て替えられ、京王線の線路と玉川上水の跡は、人が歩ける広場になりました。

新宿の喧騒も、このあたりまで来るとやや遠ざかり、静かになります。道路上を路面電車のように走っていた当時の京王線も専用線路に入るとのびのびと走るようになり、今の緑道を初台駅に向かいます。

文化学園の敷地に入り、玉川上水跡の説明付きの赤いレンガアーチのあたりになると、繁華街のイメージはありません。ファッショナブルな文化学園の学生や、オフィスへと行き来する人たちが交差します。

新宿や渋谷の周辺は、玉川上水のような江戸の水道を担った水路や、春の小川の源流、一時パワースポットで賑わった明治神宮の清正の井戸や新宿御苑にある水源など、あちこちに水が流れています。

赤いレンガのアーチの他、玉川上水の痕跡はありません。聞こえて来るのは、地下を走る京王線の電車の音だけですが、もう少し耳を澄ませると、水が流れている音が聞こえて来るかも知れません。

#玉川上水 #文化学園 #ガスタンク

ほぼひとりごと 2021年9月28日(火)

銀座エルメスビル

(写真は、数寄屋橋交差点から撮った銀座エルメスビル。ソニービルが復活すると見えなくなります)

いつの間にか、銀座にブランドの旗艦店が軒を並べることになっています。ビル一棟を使っているケースも多く、エルメスビルはその中でも大規模です。外壁のカラー装飾が思い切り目立っています。

エルメスビル内のエスカレータ―は誰でもが使えるようになっていますので、丸ノ内線や日比谷線銀座駅から、雨に濡れずに、ソニービル裏の通りに出る時に、便利に使わせてもらっています。

ソニービルがあったころは、数寄屋橋交差点から外壁全体を見るわけにはいきませんでしたが、しばらくの間、このカラー装飾のように、外壁がキャンバスのように使えるということなのかも知れません。

エルメスのスカーフが海外土産の定番だったころ、銀座など繁華街を歩くと必ず、エルメスのスカーフを見ることが出来る時代があり、高額なバーキンとか、ケリーバッグが話題になったのは少し後でした。

パリにある、エルメスやルイヴィトンの店に日本人観光客が殺到し、入場整理券が配られたという話を有名でしたが、次第に観光客の主役は変わり、日本人観光客の行列はなくなっているようです。

どういう計画があるのか知りませんが、ソニービルが復活するまでの間、エルメスビルの外壁がステージになり、誰でも使えるエスカレータ―同様、街への貢献としての役割を果たすかも知れません。

渋谷の陰に隠れて目立ちませんが、数寄屋橋もスクランブル交差点としては老舗で、銀座の賑わいのシンボルです。ランドマークになったエルメスビルの外壁、これから何が起こるのか、注目しています。

#数寄屋橋交差点 #エルメスビル #ランドマーク

自分(の仕事)史 2021年9月27日(月)

世界一周

(写真は、成田空港出発ロビー。ヨーロッパ乗り換えだと、ニューヨークから2泊3日、実質20時間以上かかって成田空港に到着します)

以前、JFKからの成田便は、JALもANAも、昼前に出て、13時間ほどのフライトのあと、時差が13時間か14時間あるので、翌日の午後に成田空港着でした。2日間を使って移動することになっていました。

夕方まで用事があった日、夜行便でパリやフランクフルトなどヨーロッパの空港に翌朝到着し、そこで乗り継いで成田に翌々日の朝に着くことがありました。このルートは、移動に使うのが一日だけになります。

同僚のお父様が亡くなった時、ワシントンからこのルートを使って、2泊3日のフライトで帰国したと聞いてなるほどと思ったのがきっかけでした。帰りにいつも通りの直行便で東海岸に戻ると世界一周です。

エコノミークラスでは厳しいので、ビジネスクラスを使わせてもらいました。パリで乗り継いだ成田行エールフランス便はニューヨークからの便と同じ機材。同じ座席のシートテレビが壊れていました。

トライアスロンのような乗り継ぎフライトでした。いつもの往復であれば、時間配分なども慣れていますが、食事時間、睡眠時間、映画、読書、仕事する時間の配分をどうしたら良いかわからず、いつもより疲れました。

成田に近づくと、ほとんどの外国人乗客がトイレで着替え始め、ピシッとしたスーツ姿になり、オフィスに行って仕事する体制に変身していました。元気がみなぎっている欧米人のパワーに感服しました。

到着後にスーツに着替え、終日都内のオフィスで打ち合わせをしましたが、夕方になると、どうにも眠くなり、耐えられませんでした。楽しみにしていた会食の予定をキャンセルして、早寝をすることにしました。

#世界一周 #ヨーロッパまわり #2泊3日フライト

一週間(9月19(日)~9月25日(土))

週刊日記

(写真は9月22日と23日の両日に秋祭りが行われた代々木八幡。今年も露店やおみこしはありませんでした)

19日の土曜日からの一週間はシルバーウィークでした。月曜日が敬老の日、木曜日が秋分の日の祝日になり、今年最後の連休でした。週後半には暑くなりましたが、秋らしい気温と青空の日々でした。

代々木地区の氏神さま、代々木八幡の秋祭りが9月22日、23日の両日行われましたが、露店もおみこしもなく、いつもなら、賑やかな境内の中でひっそりとお囃子やお神楽が演じられているだけでした。

今年最後になる連休となるシルバーウィークだったので、いつもほどではなくても、高速道路の渋滞や、新幹線や空港の混雑などで、再び、感染者数の増加しないかと心配です。

ここのところ、感染者数が減り続けていますが、理由も不透明で重症者は激減していません。医療従事者の稼働、空床率や自宅療養など医療体制をめぐる課題はそのまま、不安が続きます。

テレビによく出ている医師会幹部や、感染症専門家が経営する病院での補助金空床をめぐる報道はネットではちらほら見えますが、盛り上がりません。不都合な真実かも知れません。

自民党総裁選で上級国民、文書破棄、嘘ばかりの弁明など、ここ何年もの間に出て来た不信感があまり話題になりません。どの候補者も9年間の総括するつもりはなさそうな感じです。

コロナ禍に加え、自民党総裁選、皇室の結婚問題、株価の下落など、いろいろなことが起こっている今週でした。来年には賑やかな秋祭りになることを切に願っています。

#代々木八幡 #自民党総裁選 #シルバーウィーク

ほぼひとりごと 2021年9月25日(土)

新宿大ガードの向こう側

(写真は、新宿大ガードを、靖国通り側から青梅街道側に向かって撮ったものです)

深夜食堂という人気ドラマの冒頭は新宿大ガードから、靖国通りを、ドラマの舞台となる深夜食堂が本当に実在していそうな歌舞伎町界隈を左に見ながら走るクルマの視線から撮った映像で始まります。

歌舞伎町あたりの靖国通りには、50年くらい前まで都電の終点があり、新宿大ガードを境にして、都心と郊外が入れ替わっているような感じでした。今、大ガードの向こう側は高層ビル街になっています。

靖国通り側から新宿大ガードの向こうを覗きました。線路に沿った左側には思い出横丁、次の大通りは新宿駅西口、Y字路を左に入ると新宿副都心、直進すると青梅街道、右に曲がると小滝橋通りです。

壁に描かれた落書きや、つい最近までホームレスが生活していたのではないかと思えるような舗道など、おせじにもきれいとは言えません。今でも夜になると事件が起こりそうな雰囲気になる場所です。

統一された美しさのかけらもない感じもある新宿の街ですが、何でもありのところが魅力です。危険なだけの街でもありません。だから、深夜食堂というドラマの舞台が成り立ったのではと思います。

高層ビルが並ぶ新宿副都心、戦後が残っているような思い出横丁エリア、さまざまな飲食店やチケットショップなど雑多なお店が並んでいたり、新宿大ガードの向こう側もこちら側も興味津々になります。

新宿大ガードの先、青梅街道は山手通りと交差する中野坂上までが3車線、そこから先は2車線になります。その先はどんどん狭くなり、青梅から先、奥多摩では山道になって、山梨県に入ります。

#新宿大ガード #青梅街道 #深夜食堂

ほぼひとりごと 2021年9月24日(金)

ジューススタンド

(写真は、新宿地下のメトロプロムナードにあるジューススタンド、ジュースの森。去年の一時期は閉店していました)

季節メニューのすいかジュースもそろそろ、おしまいになるようです。次の季節メニューは巨峰ジュースだそうです。昔、生ジュースと言われていたころから、ミキサーで作ってくれる生ジュースが大好きでした。

ジュースと言えば、瓶詰のバヤリースやキリンジュース、液体シロップを希釈するものや、粉末だったころ、果物らしさがあふれ、ミキサーで作ってくれる生ジュース、特にオレンジジュースが大好きでした。

デパートなどに出店している高級な果物屋さんだけでなく、街角にもジューススタンドあります。東京メトロとJR東日本が乗降客の多い駅などを中心に、気軽に飲めるスタンドを積極的に出店していました。

去年の初夏、最初の緊急事態宣言のころ、すべてではなかったと思いますが、多くのジューススタンドも閉店になってしまいいました。しばらくして営業再開しても、お客さんが激減し、大変だったようです。

今でも、以前のような賑わいはありません。すいかジュースを飲みながら、前を通る人を見ていると、視線を向ける人はあっても、通り過ぎてしまう人がほとんどの寂しい光景が繰り返されます。

ジュースの森ではジュースだけでなく、パンなども売っています。その中では小さなアンドーナツが好きで、何回か買ったことがあります。営業再開後、うれしいことに、アンドーナツが並んでいました。

隣のJR代々木駅にあったジューススタンドや、値段が安く、行列が出来るほどだった近くの店は閉店してしまいました。年配の従業員の多いジュースの森がいつまでも元気でと願っています。

#ジューススタンド #営業再開 #すいかジュース

ほぼひとりごと 2021年9月23日(木)

モニュメント

(写真は、新宿センタービル地下の壁に取り付けられている金属の台。モニュメントみたいに見えます)

新宿ビックカメラの電話機売り場が6階の端に移転しました。電話機もFAXも在庫はほとんどなく、安売り品を除けば、お取り寄せということになっていました。並んでいる種類もわずかになっています。

携帯電話やスマホで電話をするようになって、固定電話の衰退が加速してしまいましたが、電話番号を回したり、プッシュして電話をするという機会が激減し、電話できない新入社員が話題になっています。

新宿センタービルの壁にあった金属の台、かつて公衆電話が置かれていました。2011年の東日本大震災など災害が起こったころには、家庭の電話や携帯電話より通じやすいので重宝されました。

地震や鉄道事故など災害が起こった時も、つながりやすいSNSでコミュニケーションするのが当たり前になってしまいました。公衆電話を探して、電話するという電話文化も次第に消えつつあります。

さすがに、新宿駅など、公共性の高い場所や街角には、設置が義務つけられているので、公衆電話や公衆電話ボックスが残ってはいますが、使っている人を見たことはほとんどありません。

電話が簡単にひけるようになったのは1978年、テレホンカードの登場は1983年、携帯電話の普及が加速化してから20年、インターネットも急速に普及しました。時代の変化が加速しています。

新宿センタービルの壁にある金属の台を見ただけで、我々の世代は公衆電話があった跡だとすぐにわかりますが、若い世代にとっては、電話文化の遺跡、モニュメントになりつつあるように思います。

#モニュメント #公衆電話 #電話文化

ほぼひとりごと 2021年9月22日(水)

ロマンスカーの壁画

(写真は、小田急線新宿駅、ロマンスカーホームの向こう側に、ロマンスカーの歴史を描いた壁画です)

イラストにある小田急ロマンスカー、左から4番目、客室が高くなっているハイデッカーのHiSEは長野電鉄、5番目、JR東海御殿場線沼津まで乗り入れたRSEは富士急行で現役として走っています。

3番目までのロマンスカーは、先ごろ海老名でオープンしたロマンスカーミュージアムで静態保存されていますが、どちらも編成両数は減らされ、小田急線を走っていたころの姿ではありません。

外野からすれば、遺産として保存してほしいと思いますが、場所やメンテナンスを考えると簡単ではありません。土地の広いアメリカや保存に熱心なヨーロッパのような大規模な動態保存など、夢のまた夢です。

車体の3分の1以上を切られて、渋谷で案内所だった東急の産業遺産、旧5000型も、ハチ公のおまけみたいな形で秋田県大館に引っ越しました。東急ももったいないことをしたと悲しくなりました。

1958年から東海道新幹線開通までの6年間、東京大阪間を走った電車特急こだまの151系(最初は20系)は小田急のSE車(SSE車)に学んだと言われています。小田原まで1時間が目標でした。

国鉄の151系は展望車(パーラーカー)や食堂車を連結し、編成の半分が1等車(グリーン車)という贅沢列車でしたが、3年から6年間の活躍のあと、改造されたりして、今は1両も残っていません。

鉄道が走り始めてから150年、すべての鉄道産業遺産を保存することは不可能だとは思いますが、小田急新宿駅ロマンスカーホームの壁画は単純に良いアイディアだと思い、しばらく鑑賞しました。

#ロマンスカー #静態保存 #小田原まで59分

ほぼひとりごと 2021年9月21日(火)

新宿三丁目

(写真は、新宿三丁目交差点の地下。手前が丸の内線、右が副都心線、まっすぐ行くと都営新宿線。伊勢丹の入り口が見えます)

昔の地名は新宿追分。追分だんごのお店と京王のビルには名前が残っています。戦前には京王線の始発駅は新宿追分駅でした。今は新宿三丁目という名前で誰でもわかる場所になっています。

丸ノ内線と副都心線のホームは改札口の中でつながっていて、地上でも改札口同士がすぐ近くにありますが、都営新宿線の駅はどちらの線からも少し歩かないと着きません。たまに人が滞留します。

京王新線新宿駅(都営新宿線新宿駅)と丸ノ内線新宿駅は結構離れているので、新宿三丁目で乗り換えた方が便利ですが、多少割引されるものの、それぞれの運賃が積み上げられることになります。

ちなみに、ひとつ手前の京王新線初台から、新宿三丁目で乗り換えてひとつ目、丸ノ内線新宿御苑前まで、乗車時間は5分ですが切符で410円、PASMOでも402円。3人だと1200円になります。

初乗り運賃は多少高いものの、別々の会社が運営していたニューヨークのように、メトロポリントランスポーテーションオーソリティー(MTA)としてどこまでも初乗り運賃と同じ定額というわけにはいきません。

新宿三丁目の地下にたたずんでいると、伊勢丹や他の商業施設がらみの人もふくめ、さまざまな方向を歩いている人の流れを観察することができます。写る人の少ない写真を撮るのは結構大変でした。

甲州街道、青梅街道のジャンクションだった新宿追分同様、新宿三丁目も乗り入れ先を含めると、東京メトロ、都営地下鉄だけでなく、京王、東急、西武、東武のジャンクション、忙しい場所です。

#新宿三丁目 #地下ジャンクション #新宿追分