自分(の仕事)史 2020年1月27日(月)

(1982年、38年前を振り返る)

アメリカのAT&Tは、長距離国際通信を行うAT&TとAT&Tの子会社になっているベビーベルと言われる地域通信会社とで構成されていた、事実上の独占企業でした。

その後、ベビーベルがAT&Tから独立し、AT&Tの競争会社が参入するなど、いろいろなことが繰り返され、ベライゾンや新AT&Tが中心となる市場になっています。

新AT&Tは、ベビーベルのひとつだったサウスウエスタンベル(のちのSBCコミュニケーションズ)が旧AT&T(長距離通信会社)を買収してできた会社です。

1980年代から始まった、公共企業民営化、競争導入は、携帯電話やコンピューター社会への進化とあわせ、新規上場や、市場活性化など、大きな波になりました。

地味な存在だった通信業界は、このような動きの中、経済活動の真ん中の存在となり、バブル経済の一因になりました。まさか、こんなことになるとは思えませんでした。

エキナカや、広大な敷地を活用した開発など、JRを見てみると、規制下にあった企業の底力を感じます。いろいろな評価もあるとは思いますが、民営化は成功しました。

高度成長が続き、少子高齢化が顕在化する前、団塊の世代が働き盛りの時代だったというタイミングの良さも追い風になったと思います。そんな中での係長着任でした。

自分(の仕事)史 2020年1月20日(月)

(本社係長になりました)

このころ、中曽根政権のもと、土光臨調ということで、3公社(国鉄、電電、専売)の民営化が話題でした。新聞やテレビでしか知らない自分が渦中に放り込まれました。

石川島播磨重工業から来た、新総裁のリーダーシップのもと、公社改革が進み始め、準役所という内向きの組織の中は、文化大革命で、上を下への大騒ぎでした。

社内には、現状維持派と、新総裁の意向を受けた改革派があり、国会や中央官庁もふくめ、利権争いもあり、知らないところで、いろいろな動きがあったはずです。

2年遅れて民営化することになる、国鉄の動きはまだまだでした。専売は大蔵省傘下で、若干異質だったので、電電公社が民営化議論を先導することになったようです。

1975年、役所みたいな組織だった、電電公社に入社し、4年半の研修期間、2年半の通産省出向だけしか経験していなかったこともあり、新鮮な経験の連続でした。

航空や鉄道、通信など、伝統的に各国でも、政府規制がある公共企業がこのままで良いのかという動きは、欧米から始まり、世界的な潮流になりつつあった時期です。

アメリカでは別のアプローチとして、巨大な通信会社AT&Tを独占禁止法の観点から分割するという問題は、このような動き以前から、話題になっていました。

自分(の仕事)史 2020年1月13日(月)

(電電公社に復帰します)

1982年2月、通産省での2年半の出向を終え、電電公社計画局総括課収支調査係長になりました。ここから、あらためて、自分(仕事)史をスタートします。29才でした。

電電公社入社して5年間目の夏に、通産省に出向した時から、自分のキャリアが始まったように思っています。書ききれないほどの思い出のある2年半でした。

通産省に出向していたこの時期、社内選抜に通った数人の同期は、アメリカやイギリスの大学院に留学しました。選抜前に出向したので、うらやましいなと思いました。

通産省に出向して、組織の番頭みたいな仕事をさせてもらい、一人でした大臣への説明、重要な決定への関与など、貴重な経験をすることができました。感謝しています。

そのころのキャリアは、入社7年で本社係長になったので、2年半が経過し、当時の定期人事異動時期だった1982年2月にどこに異動するか、不安がいっぱいでした。

電電公社にいれば、いろいろな噂もあったかなと思うのですが、外にいたので、何もわからず、発令を受けて、初めて、自分が行くポストがわかりました。

あとでわかったのですが、当初は別のポストだったのが、民営化を前に、通産省に出向していたという経歴に着目し、会ったこともなかった課長が指名したようです。

自分(の仕事)史 2020年1月6日(月)

(自分(の仕事)史として再スタートします)

2019年9月に「気ままに思いつき」というタイトルで書き始めた週一回発信のブログですが、2020年は、自分(の仕事)史として、あらためて、スタートします。

NTTグループからリタイアして1年半、個人事業主と自称して、損害保険会社のアドバイザーや、健康関連の会社、ソリューション会社などを応援してきました。

声がかかるかなと期待していただけになった話があった一方で、思いがけず、話が進んだり、今までに会ったことのない人たちとの接触など、面白い経験をしています。

積極的にアプローチしてきた周囲の人が、ポジションが変わった途端、連絡がつかなくなるなど、スルーされました。役職のタイトルがなくなると、外では通用しません。

初めて、そう思ったのは、通産省出向から電電公社に戻った時です。自分ではわかったつもりでも、おいしい話があるかなと思って、何度も期待したことがありました。

最初、調子良く始まった話のほとんどは、途中で消えてしまいます。営業活動でも、入り口が厳しく、あきらめようとした話の方が、成就する率が高いように思いました。

リタイア後も、そんな当たり前のことをあらためて実感しましたが、気持ちをリセットし、今までの自分を総動員して、何か役に立つ仕事ができればと思っています。