自分(の仕事)史 2020年3月30日(月)

(環境は変化する)

戦前からの逓信省が、戦後、郵政省と電気通信省にわかれ、電気通信省が電電公社(日本電信電話公社)という公共企業体として発足しました。1952年のことです。

その後、国際部門が、KDD(国際電信電話株式会社)となり、日本航空と似たような形の民間会社になりましたが、こちらも半官半民の中途半端な存在でした。

その後、KDDも、日本航空も、国鉄は、いろいろな形で不祥事に直面しました。電電公社も例外ではなく、1980年ころ、マスコミを賑わす事件が次々よ発生しました。

ひとつは、日米貿易摩擦の関係で、電電公社の資材調達は政府調達の一環とみられ、国産主義の電電公社に対し、米国製品を買うように圧力がかかりました。

これに対し、買えるのはぞうきん、バケツだけという、当時の総裁の失言が国際的な問題になり、アメリカの圧力がますます強くなり、辞任に追い込まれました。

さらに、硬直的な予算制度の抜け穴を探るような、カラ出張など、他の省庁で問題になったような不正経理が電電公社でも顕在化し、大問題になりました。

大きな組織ほど、大きな変化に気づくのが遅くなり、内部の論理が主役になってしまうことで、組織がスカスカになる危機を迎えます。ギリギリのチャンスだったと思います。

自分(の仕事)史 2020年3月23日(月)

(分岐点)

1979年から2年半の通産省出向(通商政策局中東室)、電電公社に戻って1982年から1年半の計画局総括課収支調査係勤務が、自分にとっての分岐点でした。

この2つの職場で、自分とは何か、チームのちからとか、いい意味でも悪い意味でも、多くの上司や同僚との付き合いなど、社会人として、貴重な経験を学習しました。

入社して4年余は、学生気分が抜けないまま、見習いや、研修付きのポストで仕事をしていました。今、思えばのんびりしていることですが、一人前になった気がしました。

細い道の分岐点、どちらに行けることになるかはわかりません。どちらも細い道ですが、片方だけが歩くにつれ、次第に広い道になったのだと、あとから気づきました。

電電公社に入社して4年半、出向した通産省では、国を支える若手官僚のような気持ちで仕事をしました。早朝から深夜まで、休んだ記憶も少ない時間を過ごしました。

自信をつけて戻った電電公社計画局では、民営化という大きな課題の前に、自分の知識や経験をリセットし、あらたな気持ちで、仕事しなければならなくなりました。

自分だけでなく、電電公社も、大きな変化に直面し、重大な分岐点に立っていました。この時期に、将来を左右する仕事についたのは、幸せなことだったと思います。

自分(の仕事)史 2020年3月16日(月)

(気になっていること)

最近、働き方改革、生産性向上のためには、組織のフラット化などと並び、職場に雑談をという意見が出されています。コミュニケーションを促進する仕掛け作りです。

事務機器メーカーは、PC作業などで、個人中心の職場になっていく中、気軽に打合せができるような什器販売をめざし、コミュニケーションが良くなる提案をしました。

昔の映画を見ていると、島のようになった机の並べ方、中には、一台の電話を共用するための仕掛けなど、懐かしい場面が出てくることがあります。時代が変わりました。

パーティションで区切られた個人の机、隣の人は背伸びしないと見えません。自分の前にあるパソコンのディスプレイを眺め、作業をするだけで、一日が終わってしまいそうです。

フリーアクセス方式にして、仕事で使う私物ロッカーと組み合わせる方式も流行っているようですが、この方式も個人中心になり、コミュニケーションには工夫が必要です。

社長もフリーアクセスという職場に行ったこともあります。うらやましく思って、自分でも個室から出ました。昔の職場での思い出があったから、そうしたのかも知れません。

テレワークも普及すると、職場で、メンバーの顔色を見ながら、元気かどうか確認する機会はますます減ってしまいそうです。ここに課題があるように思います。気になっていることです。

自分(の仕事)史 2020年3月9日(月)

(今ではブラック職場)

40年近く前の職場は、今の常識で見るとブラック職場だと言えそうです。エンドレスな残業、パワハラになりそうな怖い上司、時間を限られた厳しいオーダーなどです。

時間が経つと、懐かしく感じます。勉強になったと思って、正当化してしまいがちですが、家庭生活さえも犠牲にする必要があったとは言えなかったような気がします。

一方、家族のような職場とも言えました。怖いお父さんや、やさしいお母さんがいて、本当の家族より、密度の濃い関係がありました。どの職場でも似たようなものでした。

メンバーの私生活もある程度知っていました。お兄さんやお姉さんもいる大家族、面倒なこともありましたが、気がついてくれる人たちがいるという良い面もありました。

懐古趣味に陥り、ブラック職場が良かったとか、パワハラ礼賛をするわけではありません。当時でも、悲しい結末になった、いろいろな問題が起こったことも確かです。

少しだけ良かったことは、職場に雑談があったことです。電話でしゃべる声もふくめ、あちこちで、話声が聞こえていました。うるさいくらいの職場もあったくらいです。

給湯室での会話、タバコを飲みながらの話、今では無駄と言われるようになっているところで、コミュニケーションが行われていました。難しいところです。

自分(の仕事)史 2020年3月2日(月)

(こころが挫ける)

こころが挫けないようにする特効薬があるわけではありませんが、身近で苦しんでいる仲間を見て、たまらない気持ちになりますが、いくつか、気づいたことがあります。

昔と違い、会社として、相談窓口を作り、気軽に専門医の意見を聞くことができるようにしています。それはそれで良いことですが、悩ましいこともあるのではと思います。

子供のころ、精神的に不安定になった時、プラシーボ効果で、精神安定剤の代わりにうどん粉を飲まされたことがあります。成長期のことで、それで済みました。

60年近く経った今、クスリは改善され、効果的な精神安定剤や睡眠薬があるのだと思います。習慣性にならない工夫もされている、気持ち良くなるクスリだと思います。

それでも、こころが挫けそうになると、クスリに頼りたくなる気持ちがわかります。どうしても、タバコをやめられない、甘いものをやめられないということと同じだと思います。

なんとか、クスリを処方される前に、自分の経験を生かして、なんとか出来ないか、何かできることはないか、管理職になってからも、ずっと悩んでいることです。