気ままなおもいつき 2019年10月21日(月)

(ジャパンアズナンバーワン)

驚いたのは、中東の国々が、日清、日露戦争を高く、評価してくれていたということです。ジャパンアズナンバーワン前の、この時代、日本は希望の星だったと思います。

日本の立場も微妙ですが、昔、エスタブリッシュメントと言われてい国た以外で、先進国入りしたのは、日清、日露戦争後の日本だけということも事実だったと思います。

それまでは、狭い視野でものごとを見ていたのが、地政学的な見方の一端を経験することになりました。平面の地図から、地球儀のように立体的になったとも言えます。

すごい国になったUAEのアブダビで、水不足解消のため、太陽光利用海水淡水化プロジェクト推進に関わりました。大蔵省(当時)に予算折衝した記憶があります。

イランへ三井物産が国家プロジェクトとして構築した化学プラントIJPCメンバーの脱出計画(イラン・イラク戦争)に関わるなど、エキサイティングな経験をしました。

二度の石油ショックをくぐり抜け、日本が日出る国を言われるようになる前夜、このような仕事に従事できたことは、度胸が据わった以上に、その後に役立つことでした。

何でもありが通産省の雰囲気でした。ここで学んだことが後年自信や誇りにつながっていったと思います。良い経験をさせてもらったと感謝しています。

気ままなおもいつき 2019年10月14日(月)

(自分で考えて仕事が出来た)

40年前の通産省の毎日は、今で言う、ブラック企業のようでした。早朝から深夜まで、土日もない時間割やプレッシャーの中で仕事をし、生活をしていました。

中東のイスラム教国の休日は金曜日。週明けの土日に事件が起こることが多く、当たり前のように土日出勤をしていました。下手をすると休みなしの一週間でした。

かなり、自己満足的なところはありますが、自分の手で国を支えているという思いこみと、頼れるのは自分だけという、強烈な自負心が休みなしの毎日の糧でした。

上下関係なしに、新政策など、重要な政策をめぐって、議論を戦わせる職場の雰囲気が好きでした。政策官庁としての役割は何かを学ぶことができたと思っています。

不安定な中東情勢の中、第二次石油ショックに直面した時期でしたが、長い目で今から見れば、高度成長は続き、ジャパンアズナンバーワンはこのあとの時代でした。

第一次石油ショック時の物不足など、一瞬間の足踏みはあっても、今日より明日、明日より、あさってと、豊かさを実感できるようになるという確信はありました。

確信があったからこそ、中東の国々との友好関係強化や、経済協力の推進、個々の課題の解決など、何のためらいもなく、改善型施策を立案し、評価された時期でした。

気ままなおもいつき 2019年10月7日(月)

(通産省に出向しました)

失敗体験を並べる前に、組織の中で、日常業務や範囲内の業務以外でやったことを思い出すことにしました。最初は、通産省で学び、経験したことです。

今でこそ、後進の経済産業省は、政治経済分野で、現政権を支える支柱になっていると言われていますが、政治の分野では、そんなに力を持ってはいませんでした。

通産省出身の政治家も、昭和の妖怪と言われた岸信介を除き、そんなに大物はいませんでしたし、国会議員自体がそんなに多くありませんでした。

大蔵省や自治省のような影響力を持つためには、議員を増やさないといけないという話をしている先輩もいましたが、当時の通産省はアイディア官庁だったと思います。

他の省庁が、権限官庁だったので、通産省の出す、新政策や、審議会などを通じた、いろいろな施策の中には新鮮だと感心できるものも多く、楽しかった記憶があります。

電電公社に入社して5年も経っていないのに、中東経済政策担当(中東室)スタッフとして、新政策を始め、重要な政策立案や実行を任せるところが新鮮な経験でした。

2年半しか在籍しなかった出向者に、国を背負うということや、国民のために、何ができるかを考えるということをDNAとして刷り込むような度量を強烈に感じました。