これまでやってきたこと

〇 1952(昭和27)年9月4日生まれ 東京都世田谷区出身

〇 1975(昭和50)年4月  日本電信電話公社入社

東京都調布市にある、中央電気通信学園で1か月の導入研修のあと、初めて行った、三重県津にある、津電報電話局で、電柱に上っての作業もふくめ、現場のすべての仕事を体験した実習を1年3か月経験しました。現場のみなさんには、多大な面倒と迷惑をおかけしました。ありがとうございました。

翌年8月に、中央電気通信学園に戻って、3か月間の後期集合研修。11月からは、本社総裁室文書課で1年4か月の本社実習(組織担当)。余裕のあった時代の研修日程です。

〇 1978(昭和53)年3月、埼玉県久喜電報電話局電話運用課運用係長

現場係長研修として、オペレーター扱い通話(100)、番号案内(104)など、電話創業時からの仕事を経験し、すでに斜陽だった、人手による電話交換業務を体感しました。女性ばかりの職場で、男性は課長と二人だけ。電電公社の現場での課題に直面することになりました。

翌年夏、電話交換業務改革(各種調査業務、総合案内業務の導入による、総人員削減)のための1か月研修を中途退学し、次の職場に異動しました。

〇 1979(昭和54)年10月  通産省出向(通商政策局中東室)

電電公社の仕事とは完全に離れて、中央官庁の役人(課長補佐相当)として、第2次オイルショック、イラン米国大使館人質事件(イラン経済制裁)、イラン・イラク戦争など、激動の時期を経験しました。ニューヨークタイムズからの電話取材など、英語でも仕事する場面もあり、度胸だけはつきました。

当初は、石油需要がひっ迫し、中東担当として忙しかったものの、需給が緩むと繁忙度が低くなり、西欧との経済会議に携わるなど、いろいろな経験をしました。

〇 1982(昭和57)年2月  電電公社復帰(計画局総括課収支調査係長)

世界的な規制緩和やBT(イギリスの電話会社)の民営化などの動きの中、電電公社は民営化した方が良いという趣旨の事業計画シミュレーションなどを行い、国鉄に先駆け、専売公社とともに、1985(昭和60)年4月に民営化しました。

かなり無理をしたシミュレーションでしたが、市場環境に恵まれたこと、思った以上の意識改革効果により、実際には、計画より良い業績となりました。

〇 1983(昭和58)年10月 東海電気通信局業務管理部電報電話課長

民営化前後に発生した今までにない仕事や移行期の混乱を名古屋で体験し、1985(昭和60)年4月の民営化を迎えました。

東海総支社と名称も変わり、同じ職場ながら、民間会社になったという新しい気持ちになりました。電電公社が過去帳になった時代です。

〇 1985(昭和60)年4月  NTT東海総支社営業企画部担当課長)

民営化後、紙カードで管理していた、加入電話(当時、固定電話をこう呼んでいました)の原簿のコンピューター化に着手。民営化前にスタートしたテレホンカードとともに、新時代に向けての仕事になりました。

電電公社と呼ばれていたのが、4月1日以降、NTTと呼ばれるようになり、バッジやマークもガラッと変わり、面はゆい思いをしました。

〇 1986(昭和61)年2月  広報部報道担当課長(報道課課長補佐)

民営化後、イメージがガラッと変わり、NTTが時代の寵児のように扱われることが多くなり、タクシーでも、NTT本社というだけで連れてってくれるようになりました。

その渦中にあった広報部でしたが、仕事は派手さのないマスコミ担当。同じ部屋の宣伝担当をうらやましく眺めました。

一方で、会社全体が少し調子に乗りすぎた面があり、リクルート事件の前触れともなる事件に遭遇しました。

〇 1988(昭和63)年8月  四国支社営業企画部長

リクルート事件が大ごとになる寸前に転出しました。その後の展開は気が気ではありませんでしたが、民営化したNTTを地方で体験することになりました。

高松市以外行ったことのなかった四国でしたが、支社(愛媛県松山市)での仕事と道後温泉近くに住んでの生活は十分エンジョイしました

〇 1990(平成2)年10月  総務部担当部長(最初の2年は担当課長)

途中で、仕事の中身や責任はそのままで、担当課長から担当部長に呼称変更となりましたが、6年間在職し、3代の総務部長のもとで仕事をしました。

株主総会の運営などのほか、危機管理担当として、リクルート事件の後始末とも言える事件処理の渦中に巻き込まれたり、リクルート事件後の意識改革と合わせた組織や働き方変革や、本社移転(日比谷→初台)、全員にパソコンを配置した、本社OA化など、いろいろな仕事をしました。

〇 1996(平成8)年7月   NTTアメリカ副社長(2000(平成12)年7月より社長)

ニューヨーク駐在員として、アテンドや業界調査などを中心に仕事をする予定が、秋になって、アメリカで電気通信事業を始めるということになり、米国政府から一旦は却下された事業免許の取得や、日米企業に対する営業活動など、一転、ポストの性質が激変することになりました。

2001(平成13)年9月には9.11事件にも遭遇し、日本との間の調整業務で、日米間を75往復するなど、エキサイティングな7年間でした。

不安だった、英語ですが、一向に上手にはなりませんでしたが、慣れることで、コミュニケーションもある程度取れるようになりました。英語に関しては、冷や汗の出るような体験ばかりでした。

〇 2003(平成15)年7月  NTTコミュニケーションズネットワーク営業部長

1年間という短い期間でしたが、営業活動を行って、大きな成果を上げる前に転出をしましたが、日本国内で初めての法人営業担当だったので、勉強になり、コネクションも出来ました。

草創期のIP電話を重要なお客様に売って、つながらず、お客様に迷惑をおかけしたこともあります。(半年後、CIOからつながるようになったので安心してほしいという電話をもらいました。赤面の限りでした。)

〇 2004(平成16)年6月  東日本電信電話取締役神奈川支店長

まさかと思った、地域会社での取締役就任でした。企業や自治体への営業活動や訪問活動と、従業員が元気になる活動を中心に、3年間、いろいろなことをやりました。

力を入れていた、Bフレッツが売れない、開通しないのに加え、作業事故が多いなど、必ずしも成果が上がりませんでしたが、地元のみなさんとは懇意になり、その後の社長業には役立ちました。

〇 2007(平成19)年6月  NTTラーニングシステムズ代表取締役社長

研修会社として、NTTグループを中心に営業活動や、研修業界、映像制作業界のみなさんとの知己が増えました。前任者からの引継ぎで、カーリングの本橋麻里選手を会社として、支援し始めたころでした。

2年間だったので、やり残したことも多く、消化不良ではありましたが、今までにない、いろいろなコネクションを広げることが出来ました。

〇 2009(平成21)年6月  NTTクオリス代表取締役社長

電話帳印刷からスタートした印刷会社で、全国数社あった会社を統合した会社でした。電話帳減少の中、厳しい競争環境の一般印刷にも進出していました。ここでも、営業活動が中心でしたが、雇用維持も大きな課題でした。

この会社で、電話帳はなくならないという盲目的な思い込みを痛感しました。(その後、料金請求書印刷会社(NTTビリングソリューション)と合併し、現在はNTT印刷となっています。

〇 2013(平成25)年6月  NTTタウンページ代表取締役社長

オワコン(終わったコンテンツ)と思われていた、紙の電話帳のイメージチェンジ、全住戸・全事業所お届けの全国での実施、防災タウンページ発刊や、ネット版タウンページ(iタウンページ)機能やSEO力向上などを通じ、20年間続いている減収ストップにあと少しと希望の持てるところまでは到達したと思っていますが、まだまだです。

ここでも、電話帳はなくならないという確信を壊し、危機感を共有することは大変なことでした。後任に苦労をかけることになりました。

〇 2018(平成30)年6月  退任(NTTグループで43年3か月でした)

〇 2018(平成30)年8月  東京海上日動火災保険情報産業部ICTアドバイザー

いろいろなみなさんのご尽力で、東京海上日動火災保険とNTTグループのブリッジとしての役割を果たすことが期待されています。

具体的な取り組みになるよう、これまでの経験を生かした、アドバイスをして、お役に立ちたいと思っています。