自分(の仕事)史 2020年9月28日(月)

(モジュラージャック)

イギリスのブリッティッシュテレコム(BT)、民営化したNTTは、すでに民間会社で運営していたアメリカ(AT&T)などとともに、将来への期待が受けることになりました。

会社につとめる者にとっては、民営化が主役でしたが、1985年4月には、電話事業の自由化も行われ、永年続いた、電電公社の独占事業が終わることになりました。

サービスのアンバンドリングにより、端末の電話機、屋内配線、屋外配線、局内設備(電話番号)などに区分され、宅内コンセント(モジュラージャック)が登場しました。

おまけに、移動通信系サービスは、非対象規制ということで、NTT固定電話会社とは別会社で運営し、競争を促進すべきという理由で、地域ごとの会社が設立されました。

当時、固定電話も、移動体電話も、音声が中心でした。その意味では、別組織での運営でも、支障があったわけではありませんが、後年に問題を残すことになりました。

このような構造になったため、固定系と移動系で、別の料金体系になってしまったため、最初のころの移動体通信は、基本料金も通話も高い、ぜいたく品になりました。

音声通信に加え、データ通信もテレコミュニケーションの主役となり、永年続いた、固定電話から、あらたなビジネスが創造される時代が目の前に来ることになりました。

自分(の仕事)史 2020年9月21日(月)

(公園デビュー)⇒金杉橋の公園

半官半民の電電公社時代は、唯我独尊と言われても仕方ないほど、内部だけのローカルルールや、ローカル言語がありました。覚えることが一人前への登竜門でした。

30年以上経った今でも、残っていることがありますが、民営化の波の中で、お客様にわかりやすいNTTにしようという意識は少しずつでも、浸透していったように思います。

言ってみれば、公園デビューみたいなものです。最初はぎこちなかったり、眉を顰められたりすることもあったと思いますが、次第に仲間に入れてもらえることになりました。

広告宣伝費や、資材調達などの額も大きく、チヤホヤされる機会も多く、勘違いする人も少なくはありませんでしたが、初心を忘れると、周囲のあたたかいまなざしが消えてしまいます。

オレンジ活動以外も、毎月19日を、19(トーク)の日と定めて行った、いろいろなイベント活動や、電話教室や、電話応対教室なども積極的に実施することになりました。

報道部門は、以前より注目をしてくれるようになったマスコミ対応に追われていました。NTTはすごいぞという論調のオンパレードのような取材に、驕りが出始めたころです。

公園デビューの時を覚え、初心を忘れてはいけないと思い続けていれば良かったのですが、自分の力だけで、ここまで来たという感じが広まり、慢心したように思います。

自分(の仕事)史 2020年9月14日(月)

(広聴のはなし)

民営化の直前、テレホンカードで電電公社を身近に感じてもらうことができました。堅いイメージが少し減少したのではと思いますが、お客様からのクレームも増えました。

電電公社時代は、半官半民らしく、我田引水、我が道を行くと言われても仕方ない状況でしたが、テレホンカードが話題になったため、みなさんの注目が少しばかり増えたようです。

そんな中、民間会社からやって来た大物総裁のもと、民営化前から、マスコミ、民間会社、官庁、文化人など、いろいろに声をかけ、アドバイスをしてもらう会議を作りました。

テーマごとに、グループにつくり、それぞれに電電公社の中堅社員を入れ、世論作りと、社内の意識改革の一挙両得もめざし、いろいろな成果を挙げることになりました。

名古屋で営業担当課長をしていたので、メンバーではありませんでしたが、広報部異動後に様子を聞き、うらやましいと思いました。社内に風とゆらぎを送る効果があったと思います。

民営化後に、オレンジラインという名前の活動がスタートしました。オレンジセンターがお客様の声を積極的に収集し、部門間調整をした上で、トップが出席する会議で審議するというものでした。

お客様の声を無視することができない仕組みを作ることで、社員の眼を外に向け、世の中の役に立つ会社になろうという気持ちを浸透させ、課題を解決していくことが目的でした。

しばらくするとマンネリになり、次第に定型的な話になっていきましたが、このようなアクションを持続的に打ち出し、緊張感を維持していくことの大切さを学んだ気がします。

アーカイブ:2001年9月11日直後のニューヨーク便り

ニューヨーク便り(2001年9月12日)

こんなことが起こるかということが起こってしまいました。いまだに知り合いの方が 複数名行方不明なので心配です。
朝の出勤をしてしばらくして、ふっと外をみたら、ビルの上の方から煙が出て、火も みえたので、あわててテレビをつけ、大変なこととわかりましたが、原因とかはわか らないままに、呆然としているうちに信じられないことになったのは、ご承知の通り です。オフィスから南方に比較的高層ビルがなくしかも41階なので、真正面にみえ るビルでした。

その時より、しばらくたっての方が怖くなり、震えるくらいでしたが、オフィスビル も次々に閉鎖となり、昼前から順次、社員を帰しましたが、交通機関も途絶したり、 ということで、結局最後に社員の帰宅を確認したのは夜11時くらいでした。電話も 通じなくなっていたので、別の地区に住む何人かで手分けし、時間がかかりました。

今日12日はマンハッタンへは来ないようにという指示もあり、さらにまだまだ火災 がおさまらないこと、橋もトンネルも通行が著しく制限されたので、自宅待機にし、 マンハッタンで出られる人だけ、出勤しました。他社も同じかそれ以上で、街はひっ そりという感じでした。

が、スーパーマーケットやレストランは11日からやっていて、売り惜しみも買い占 めもなく、商品もふんだんにあり、日本で何もないスーパーと報道されたらしく、い ろいろと聞かれましたが、平穏そのものです。ボランティアも始まったりして、なん となく大人だなという気がします。

飛行機も無事とんで元にもどるまでにはしばらく時間がかかると思いますが、こんな ところです。なお、13日から平常に戻ります。

 


ニューヨーク便り(2001年9月13日)

残念ながら、煙い街になっています。次々と倒れるビルをみていると、仕事やプライ ベートに出かけたこともあるところなので、複雑な気分です。また、グランドセント ラルステーションやエンパイアステートビルに爆弾をしかけたといういたずらのた び、オフィスの窓がゆれるたびに、ドキッとし、落ち着きません。
日本の航空会社が来ないとなると、心細いなとも思いますが、社員が復旧やあらたな 開通工事に汗を流しているのをみると、しっかりしなくてはと思い、元気な会社にな るように努力をしています。

13日からは平常通勤ではありましたが、上記のような騒ぎのおかげで、大事をとっ て帰る人も多く、気持ちも動揺しがちで、夜のタクシーの空車もえらく目立ちます。 それでも日本食をはじめ、レストランはすべて開いていて、まずまずお客も入ってい ます。スーパーの品物も朝早くから補充され、頼もしい限りです。

まだまだ混乱していますが、来週にはNYSEも再開し、だいぶ戻るのでは期待しています。

 


ニューヨーク便り(2001年9月14日)

1.14日は午前中雨、風が強く、捜索作業の困難さを考えるとたまりません。それ でも雨で、煙はなくなると期待していたのですが、午後晴れると昨日と同じような煙 が漂い、がっくりしました。今日は生存者が確認されなかったとのことです。夜7時 からキャンドルライトサービスということで、多くの人がろうそくを持って歩き、平 和を願うというものでした。
2.14日は爆弾騒ぎもなく、空港もきびしくチェックすることを前提に開港されま したが、国内線でも二時間半前には来るようにということで、空の旅も大変みたいで すが、きちんとやってほしいという気はします。5年前にくらべ、最近、格段にいい かげんになっていました。

3.アメリカ国旗がたくさん売れ、車、家、髪などにつけ、国家意識を高揚させてい ます。もともと、国旗を誇りに思っている人が多かったのですが、とにかく、旗、 旗、旗です。街でも旗売りが出ています。日本では、ないと報道された水はやまほど スーパーにあり、今のところ不便はまったくありません。レストランに入ったりする と何もなかったように思いますが、煙が消え、何もないと実感すると再度、大変なこ とが起こったということを実感することになりそうです。

4.NTTコム回線故障と大きく報道されましたが、それでもバックアップや代替回線 開通により、被災企業もふくめ、多くの企業が影響を小規模に抑えることができ、今 回、14丁目より北方に交換機があるという幸運にめぐまれ、最小限のご不便ですむ ことになりました。来週から復旧が本格化するので、しばらくいろいろなことがあり そうです。でも、お蔭様でお客様からおほめの言葉をいただき、ありがたいことで す。

 


ニューヨーク便り(2001年9月15日)

昨日午前の雨とうって変わって秋晴れの良い天気。空気もすみ、気温も10度台、半 そででは寒いほど。でも、煙は消えていません。
今日は自宅待機、たいしたことをしていなくても、休むとがっくり。外で働き詰の ニューヨーク市長や作業をしている人のことを思うと大変だと思います。ボランティ アそのものは、すでに充足され、食料もいらないということみたいですが、クレーン 運転の専門家など、プロがほしいそうです。

外にはいつもより人が多く、カメラを持っていたり、見物かなと思ったら、やはり、 規制のとれたダウンタウンへは人が多く入り、邪魔だとテレビで言っていました。ど こにでも野次馬がいるようです。それでも、近所のユニオンスクエアでの市はいつも と同じように開かれ、にぎわっているのをみると安心し、うそのような気がします が、その近所からみえた二つの高層ビルが消えてしまったのを確認するのがこわいと いう感じです。

昨日のろうそく、旗とともに、尋ね人のビラがあちこちに貼ってあります。特に近所 のレキシントンアベニュー25丁目に、捜索センターがあるので、余計です。

 


ニューヨーク便り(2001年9月16日)

昨日に続いて晴れの上天気。街の雰囲気も同じ。増えるのは星条旗の数。テレビでも 愛国心を高揚するような番組が続き、名誉を守るためにどうするかという論調。その 意味では他の国の雰囲気が伝わる日系マスコミの方がわかりやすい。
残念ながら、煙はそのまま、特段弱くなったという感じもなく、続いている。ただ、 近隣のアパートに住む人は、エスコート付という制限ながら、立ち入ることができた ということなので、落ち着きを取り戻しているのは確か。ブッシュ大統領も戦争への 準備と平行し、月曜からはBack To Workと国民に呼びかけている。株式市場も再開 し、一気に通常に戻ってくれればという気がする。

テレビは相変わらずニュースばかりを三大ネットワークやCNNはやっているが、一方 で通常の映画やコメディ、バラエティもやっており、選択の国らしい。不謹慎などと 言わず、きちんとわけるところが大人の感じがする。したがって、日本の新聞に出て いるバラエティなしは、三大ネットワークではという注釈が必要。月曜からはメ ジャーリーグも再開するし、ジュリアーニ市長も呼びかけ、さらに新聞でも言ってい るように、テロに対抗する最大の手段は、動ぜず、普段と同じことをし、アメリカの 飛行機にのるというもの、消費しないで、経済が失速するとまさにテロリストの思う つぼ。

いささか賛同しかねるところはあるが、確かにそうかも知れない。いろいろな意味で 複雑な状況になっている。

 


ニューヨーク便り(2001年9月17日)

週末に積み残しになっていた日本向けの乗客も大体が乗れて、予約も比較的簡単にと れるようになったそうです。ただ、デルタやコンチネンタルなどが不採算である東京 行きをキャンセルしたため、ツアー客がのれず、かといって別の切符はノーマルだ し、ホテルはすでに自己解決という状態の人がいるそうです。早く、正常に戻り、帰 国できるようになればと思います。
今日は晴天で、大分煙も少なくなり、いよいよ、あのツインタワーがなくなったこと をしみじみと実感しなければならなくなってきました。街はほとんど元のようになり ましたが、いろいろなところで規制や運休もあって、ところどころ、大渋滞があり、 通勤は痛勤になっているようです。電車や地下鉄が満員ということではありません が、通常が比較的恵まれているのでいるのでつらいようです。

ダウンタウンは証券取引所の再開で、近所への規制がとれたようですが、ビルの状態 はまだまだみたいで、エアコンが入らなかったり、ということのようです。それでも 自分の会社に戻れるというのはありがたいことです。被災した会社の不動産探しで、 一気に市場は逼迫し、当社のオフィスも提供することにしています。

大分落ち着きを取り戻し、テレビ番組も通常になって、ニュースばかりではなくなり ました。報復についても、だんだん理性が勝ってきた感じです。簡単に信じてはいけ ないのでしょうけど、それでも慎重な対応が望まれます。

 


ニューヨーク便り(2001年9月18日)

いつもはなかなか工事せず、いらいらし、お客様に文句を言われる、こちらのキャリ ア(通信事業者)ですが、証券取引所の再開のためにVerizonというこの地域の電話 会社がしゃにむに仕事をし、17日までに間に合わせただけでなく、当社の国際回線 のアクセスとして使っているキャリアも、常とはまったく異なり、きわめて短い期間 で開通し、復旧をしてくれます。奇跡と言われていますが、現実にそうです。やれば できるのでと思いますが、今だからだとは思います。こんなところにも復興に向けて のアメリカ、ニューヨークの熱意が伝わるようです。
気がついたことはタクシーの空車が多いこと。普段だとつかまえるのが難しい時間帯 でも、空車のタクシーの多いこと、ダウンタウンに人が少なくなっていること、人々 が出歩かず、ということかも知れません。ニューヨーク名物の黄色いタクシー、つか まらなくてイライラするのも困るが、空車ばかりなのは、さびしさを感じます。

 


ニューヨーク便り(2001年9月20日)

一日ニューヨーク便りを休んでしまいましたが、ニューヨークは20日、一日中雨で した。それも結構強く降ったりして、捜索活動に支障が生ずるのではないかと心配し ています。9月の雨ですから、一雨ごとに寒くなるのかも知れません。
ミュージカルの不振、航空会社のリストラ、等々、テロの効果が如実にあらわれてい ます。街から観光客の姿がめっきり減って、ホテルもガラガラだそうです。永遠に続 く景気をあてにしていた人たちにとっては、苦い秋になるのかも知れません。IT不景 気から続いているので、苦さもひとしおだろうと思いますが、それが社会不安に直接 つながらないようにと念じています。

国旗の需要はすごいらしく、在庫ゼロ状態だそうです。郊外に住んでいる人に聞くと ニューヨーク郊外の住宅地では国旗を出しておかないといけないという状況だそう で、引っ張りだこになっているようです。マンハッタンでもビルや店は国旗ばかり、 国を愛するということでは、すごいなと思う反面、彼らの敵になったら無気味だなと も感じます。アラブ系の人が襲われたということも聞きます。自由でおおらかだった 街、国が自由を守るために、ある種の自然発生的な規制ができつつあるように思えま す。杞憂かもしれませんが。


ニューヨーク便り(2001年9月22日)

旗の増産ができたみたいで、至るところで売っています。あとは青と白、赤のリボン を胸につけたり、バッジをつけたりとアメリカ一色です。ここにいると気が付きにく いですが、西海岸から来た人に聞くと、人々の表情が暗いというようです。確かにカ リフォルニアの底抜けの明るさだけでなく、いつも比較しても、そうかも知れませ ん。
日本レストランも、宴会などをしている人はいないという状態みたいです。クリスマ スパーティのキャンセルもあるらしいという話もあり、経済の先行きにかげりが出て いるのでしょう。ここで働き、お金を使いましょうという呼びかけがあっても、航空 会社の解雇など、好景気を享受した産業への影響も現実のものとなり、しばらくは我 慢みたいです。

が、そんなことをしていては、十分テロの効果あり。暗さの一方で、ビジネスは徐々 に開始され、世界の中心、アメリカの中心、ニューヨークの復活に向けて、動き出し たことも確かです。まだ、完全ではなく、お客様にはご迷惑をおかけしていますが、 それでもアメリカを復活させるという意欲と熱意がアメリカの通信事業者からも直に 伝わってきます。

オフィスがダウンタウンにあったため、通信に障害のあったTVジャパン(NHKの国際 放送プラスα)も、日本からの放送をほとんどそのままに流し、夜中におかあさんと いっしょを放送するという奇妙な状況だったのが、今日22日から通常に戻りまし た。TVジャパンと一日2時間放送するフジTVとが頼りでした。アメリカの放送と両方 みると、ああこんなことだとわかります。インターネットしかり、かつての時代だっ たら、さぞかし不安だったと思います。

 


ニューヨーク便り(2001年9月23日)

元気を出そうということで、仕事に戻る、NYで買い物をする、半旗をやめ通常にする など、で、一見平常ですが、最近になって一時の平気だという感じより、普通ではな いなという気持ちが強くなって来ました。カリフォルニアから来た人に言われてそう 思い、そのあと、自分で確認しました。逆に時間がたった方がズシンと利いてきま す。
仕事の方はすこしづつ進み、なんとか、24日の週にはめどをたてたいと思っていま す。日本の報道では次のテロにおびえるNYという記事がありましたが、一方で、オ フィス需要は当然強く、被災企業が場所を確保するのは至難の技みたいです。確かに 怖くないかと言われれば、怖く、ダウンタウンへはいつになったら行く気になるか自 信もありませんが、NY復興という命題のもと、アメリカ企業としてなんとか、役割を 果たしたいと思っています。今のところ、なんとか、責務を果たしていると自負して いますが、それでも足りないことだらけ、毎日、お客様に、社員に、家族に教えても らう感じです。ありがたいことです。わかれば即断即決、なんとかなります。問題は 問題をわからないこと。うまくいっているという報告をしたいという気持ちにならな いよう、生の情報を自分の目でみて、つかむようにしています。

消防士、警察へのニューヨーク市民の信頼が、もともと高かったところ、今回のこと で、ますます上昇しています。かつて犯罪の巣窟と言われたころと比べるとおそら く、大きな違いなのだと思います。寄付も尊敬も、ということです。これがアメリカ の結束の源かも知れませんが、行方不明者、犠牲者の中には、アラブ系もふくめ、ア メリカ以外に60数カ国の人がいたという事実ももっと重視してほしいという気がし ます。

 


ニューヨーク便り(2001年9月24日)

初めて、仕事でWallストリートに行って来ました。地下鉄の走っているブロードウエ イの西側に現場があります。駅から目的地のビルまではみえるところがありませんで した。一駅北に歩けば、見えますが、見られませんでした。結局、ビルと駅を往復し ただけです。11日から数日、会社と自宅の往復以外、どうしても横に曲がりたくな い状況が続いたのと同じで、何か後押しされるきっかけがあるまでは行けないかも知 れません。
ビルは灰だらけのままで、電気は自家発電。外に移動電源車が置かれ、供給していま す。そのため、エアコン、空調なし、エレベータは間引き、照明も一部だけ、暑く、 空気の悪い中で、仕事をしていました。ミッドタウンのオフィスでは何も不便なこと はないのにくらべ、ここは戦場だと痛感しました。店も開いていないところが多く、 なんとか、証券取引所を再開するためにがんばったという感じです。再開して一週間 ですから、先週はもっと大変な厳戒態勢だったようです。

一方、復旧は確実に進んでいます。元気のもとになればと思い、しっかりとやってい ます。

 


ニューヨーク便り(2001年9月26日)

JALもANAもガラガラだそうです。特に日本からの便が空いているみたいです。こちら からは50%程度は乗っているとのことですから、3割ということみたいです。予定 していた団体や視察は全部キャンセル、観光客も当然少なくなっています。日本食レ ストランでも宴会は皆無、気分的にものらいないようです。こちらの日本人親睦施設 日本クラブもパーティのキャンセルだけで、40件近くとのこと、シーズンに向けて 暗い話ばかりです。
これじゃ、早晩、経済状況は急降下、失業者があふれることも最悪の事態としては、 否定できません。いつもは底力のあるアメリカ、まだまだ大丈夫と強調しています し、確かにまだまだファンダメンタルな部分はたいしたものと思いますが、あまりに も急激に変化すると、さすがに補正もきかず、一気に不景気に突入ということも考え られないわけではありません。

こちらでも、経済的に参ってしまうということも言われ始めているようです。心配し て準備をするということと、とにかく、不況にならないように取り組むということを いかに両立させるかが、問題だと思います。難しい課題をどう乗り切るか、別の意味 でのアメリカの危機管理が問われると思います。

 


ニューヨーク便り(2001年9月27日)

本格的な秋が来たようで、朝は10度以下です。捜索活動はまだまだ続いています が、大変だと思います。トラックのマンハッタンへの乗り入れ時、中をしっかり検査 するなど、あらたなテロ対策を講じていると聞くとぞっとしますが、被災された会社 の落ち着き先も次第に決まり、当社のオフィスを使ってもらっている被災企業の表情 も少し明るさを取り戻したようです。忘れるわけにはいきませんが、前を向くという 姿勢でのぞめるようにはなったということだと思います。
暗い話ばかりでなく、復興に向けた動きもあります。ワールドトレードセンターを建て直し、今度は50階くらいのを4棟建てるという案や、2012年オリンピックへ の立候補という案など、みらいに向かって元気になっています。ぜひとも、平和に実 現し、その日が来ることを祈念しています。

ニューヨークのアフガニスタンレストランが嫌がらせをされたようですが、現在は逆 にニューヨークの人たちで込んでいるようです。そういう多様なところがニューヨー クの良いところだと思います。

 


ニューヨーク便り(2001年9月30日)

昨日からエンパイアステートビルの展望台が再開。並んでいる人がTVにうつっていま した。次第に普通になるのは歓迎ですが、じゃ、自分が行くかというと、考え込んで しまいます。飛行機で出張した社員も、ガラガラでびっくりと言っていました。飛行 機は今こそ、チェックもきびしく安全だと頭では理解しても、社員にできれば鉄道で 帰って来られないかと言ってしまいます。
今日は午後から冷たい雨、日曜は買い物客でにぎわうデパートも閑古鳥。昨日の夕方 の街は結構にぎわっていたのですが、今日はだめ。午後一番で降りだしたので、さ あ、出ようという気持ちに水を差したみたいです。

どこかで、割り切って、普通に戻らないと、どんどんと景気が悪い方向に向かってし まいます。ということで、このレポート、今回を持って事件後のニューヨーク報告で なく、普通に戻りたいと思います。

みんな、これじゃ、だめ。しっかりとしなくてはとか、普通にしなくてはと思ってい るのですが、本当のところはまだまだです。とにかく怖いのは確かですが、怖さを しっかり受け止めて、きちんと対策をたてて、楽観的に対処しないとやりきれませ ん。最悪は、忘れたほうが良いとばかり、今回の事件を無視し、考えないというもの です。気持ちはわかりますが、怖さと向かい合うことも必要だと思っています。

要は、用心しながら、いろいろなことをする。交通事故、地震対策、あたりまえに やっていることをやれば、良いと思って明るくしたいと思っています。どうか、よろ しくお願いします。

ご心配いただき、ありがとうございました。

 


 

自分(の仕事)史 2020年9月7日(月)

(広報部報道担当へ)

広報部への異動は1986年2月。民営化してから10か月経過した頃でした。民営化の前から、広報部は大活躍、電電公社のイメージを払拭し、新NTTを印象づけました。

着任した時は、絶頂状態にあったと思います。コマーシャルも派手になり、NTTという略称も浸透しつつありました。気分的にも、全く違った会社になったように思いました。

社会インフラとしての通信事業の役割は認められていても、地味な会社でした。タクシーで、内幸町の電電公社と言っても、知らない運転手さんの方が多かったと思います。

一方で、地方では、電電公社という名前は知らなくても、電話局の存在感は大きく、どの街にも、中心地の大きなアンテナが屋上にある建物として、誰でも知っていました。

広報部には、3つのグループがありました。宣伝部門、お客様の声を聴く広聴部門と、私の所属した報道部門。それぞれに特色がある、呉越同舟組織になっていました。

注目度の高い宣伝部門にくらべ、報道部門は地味でした。髪が長めだったこともあり、しばらく経って、他の部門の人から、どちらの新聞ですかと聞かれたことがあります。

宣伝部門のスタッフは、業界人みたいな格好で出勤する人もいて、華やかな感じでした。となりの芝生、すべてにおいて、羨ましいと思って、眺めていた記憶があります。