自分(の仕事)史 2020年4月27日(月)

(テレホンカード)

電電公社という組織をどうするかが、行政改革の目玉のひとつになっていたころ、テレホンカードという画期的な新商品が登場しました。小銭のいらない公衆電話です。

以前は、固定電話(黒電話)が市内は7円、赤い公衆電話は10円硬貨を入れると、無制限で通話できました。市外通話は申し込んでつないでもらっていた時代です。

その後、市外通話も自動になり、市内は固定電話が3分7円、公衆電話も10円入れると市内は3分単位になり、市外通話もかけられる黄色い公衆電話も登場しました。

昼間、割引のない時間帯、最遠だと、ほんの数秒ごとに10円が必要になり、硬貨を入れるだけで大変でした。黄色い100円公衆電話はおつりが出ませんでした。

テレホンカードの登場は画期的でした。500円でスタートし、高額のカードや、会社や個人の儀礼用のデザインテレホンカードなど、バリエーションも増えました。

電電公社、NTTを通じて、最大のヒット商品のひとつになり、携帯電話が普及するまでの間、外で電話をする時の主役になりました。誇らしく思った商品でした。

海外にかけるための偽造カードが出てきたり、問題も発生しましたが、キャッシュレスの走りだったと思います。その後、JRのオレンジカードなど交通系が登場しました。

固定電話を設置する事業から、使ってもらうビジネスへの転換が本格化した時代でした。民営化前後、コマーシャルも積極的になり、イメージが変わることになりました。

自分(の仕事)史 2020年4月20日(月)

(内幸町1-1-6)

次の総裁(最後の電電公社総裁)は、内部昇格ではなく、部外からになりました。中曽根首相、土光経団連会長に近い、石川島播磨重工(IHI)社長だった、真藤恒氏が就任しました。

本社研修のころ、研修生(見習い)は8時半の始業時より前に出勤して、机を拭き、お茶くみの準備をしていましたが、係長や課長補佐の出勤はだいぶあとでした。

おかげで、お茶の入れ方には慣れました。熱さぬるさ、濃い薄い、コーヒーと紅茶どちらが良いか、個々人の好みを通りに、自前のカップに注いで、日に2回出しました。

重役出勤とか、役所時間と言われるような出勤でしたが、真藤総裁になってから、局長クラスの幹部が、早い時間に呼ばれることもあり、戻ったら、様変わりでした。

当時の通産省は、事実上は9時半から10時くらいが出勤時間で、そのかわり夜はエンドレス、休日出勤はし放題で夜型に慣れた身には、深夜勤務はそのままの8時前出勤はつらいことでした。

困ったのは、朝食をとってきても、2時間ほど、出勤時間が前倒しになったので、10時半には空腹を覚え、お腹が鳴って、恥ずかしい思いをしたことがありました。

仕事自体も、ガラッと変わり、事業独占の親方日の丸で、変化を好まない体質から、行政改革の流れの中、民営化とか、競争導入という耳慣れない言葉があちこちで聞けるようになりました。

千代田区内幸町1-1-6にある電電公社本社に戻った1982年冬。行政改革シフトに近い新総裁の登場で、新しい時代の幕開けが近づくことになったことに気づいていませんでした。

自分(の仕事)史 2020年4月13日(月)

(大きなオマケ)

オープンスカイポリシーの本家、アメリカの航空会社はすでに株式を公開している民営化企業でしたが、日本やヨーロッパは、政府が所有する公企業や公社でした。

アメリカでも、大恐慌後に設立されたテネシーバレー流域開発公社(TVA)や、破綻した鉄道をまとめたアムトラックなどは、公社形態をとっていましたが、例外でした。

最初は、民営化が公企業になじむかという哲学論争みたいな話でしたが、次第に、政府保有株をどこまで売却するか、政府の保有義務をどうするかという話になりました。

面白いことにアメリカでも、安全保障上の問題で、通信会社や、航空会社には、政府持株規制や、いくつかの参入規制など、完全自由化されているわけではありません。

日本でも、水源の確保ということで、水道分野の自由化の可否が議論されていますが、どの国でも、インフラの首根っこが外国資本保有にならないようにはしています。

政府保有株の市場放出は、公企業の民営化による、政府の錬金術でした。とりわけ、NTT株売却は、NTT株バブルと言われるくらい、市場を過熱化することになりました。

民営化論議は、このような大きなオマケ付きでした。自分の会社が売られるという抵抗もありましたが、あれよあれと言う間に民間会社に衣替えすることになりました。

いろいろな要素がからまって進んでいった話です。思惑も複雑で、利権もたくさんあったと思います。電電公社最後の総裁が大きな役割を果たすことになりました。

自分(の仕事)史 2020年4月6日(月)

(オープンスカイポリシー)

内部での問題発生で揺れていた電電公社ですが、本社係長になった頃、海外では、国有企業や、規制で守られている公的な分野への競争導入や民営化が話題になっていました。

アメリカの航空業界で言われ始めたキーワードが「オープンスカイポリシー」でした。アメリカでも、航空業界は、いろいろな意味で、政府の規制により、料金などが決められていました。

結果としては、路線別独占など、数少ない航空会社の利権が守られることになっていました。高い航空運賃を下げるためにも、何らかの転換が必要だと考えられるようになったのでした。

アメリカは「オープンスカイポリシー」を政策として導入し、航空業界に競争を導入し、市場を自由化し、新会社が参入しやすいようになりました。ここから、ここから、今が始まったのだと思います。

結果として、パンアメリカン航空が倒産するなど、さまざまな再編が行われ、格安航空会社や、料金を弾力的に設定する方式など、安全面を除いて、完全自由化されました。

このことで、公企業が市場を独占することによる弊害をどうやって除去するかという課題と、市場に競争を導入し、自由化するという課題のふたつがあるということに気づきました。

この話は、アメリカの航空業界だけでなく、通信分野、鉄道分野など、多くの市場にも同じことが言えました。技術進歩ともあいまって、このころから、地球が狭くなることになりました。