ほぼひとりごと 2021年10月16日(土)

池上線

(写真は、山手線より高いところにある東急池上線五反田駅に停車中の蒲田行電車です)

山手線は五反田駅、目黒駅ともに、品川寄りの車両から乗り降りする人が大勢います。目黒駅は東京メトロ南北線・都営三田線と東急目黒線、五反田駅は山手線の上の高架にある東急池上線です。

五反田駅は目黒駅寄りの地下にも都営浅草線の駅があり、東急池上線の駅との高低差は渋谷駅と同じようにかなりなものです。東急池上線の五反田駅を見上げると、ずいぶん高いところにあります。

以前、西島三重子さんという歌手が歌った「池上線」という曲がありました。中ヒットにはなったと思いますが、同時代的な歌詞やメロディーが受けているのか、YouTubeでの再生やカラオケでは現役です。

しばらく前、蒲田に用事があった時、五反田駅から池上線を全線乗りました。二つ目の駅は賑やかな商店街で有名な戸越銀座。この駅を始め、いくつかの駅は大改装されましたが、ふだん着の街です。

「池上線」という曲の歌詞に描かれているような街が続きます。ホームと改札口、踏切と商店街の距離も近い駅もまだまだあり、携帯電話やスマホがなかった時代の待ち合わせの情景がよみがえって来ます。

池上線の時刻表を見ると、朝夕のラッシュ時間帯には、待たずに乗れるように、3分か4分おきに3両編成の電車が来ることになっています。昼間でも7分半に一本。使い勝手の良い街の電車です。

東横線や田園都市線のような東急電鉄の幹線と違って、池上線は多摩川線や世田谷線同様、短い距離を行ったり来たりし、街に溶け込んで走ります。ています。池上線五反田駅で写真を撮りました。

#池上線 #西島三重子 #五反田駅

自分(の仕事)史 2021年9月27日(月)

世界一周

(写真は、成田空港出発ロビー。ヨーロッパ乗り換えだと、ニューヨークから2泊3日、実質20時間以上かかって成田空港に到着します)

以前、JFKからの成田便は、JALもANAも、昼前に出て、13時間ほどのフライトのあと、時差が13時間か14時間あるので、翌日の午後に成田空港着でした。2日間を使って移動することになっていました。

夕方まで用事があった日、夜行便でパリやフランクフルトなどヨーロッパの空港に翌朝到着し、そこで乗り継いで成田に翌々日の朝に着くことがありました。このルートは、移動に使うのが一日だけになります。

同僚のお父様が亡くなった時、ワシントンからこのルートを使って、2泊3日のフライトで帰国したと聞いてなるほどと思ったのがきっかけでした。帰りにいつも通りの直行便で東海岸に戻ると世界一周です。

エコノミークラスでは厳しいので、ビジネスクラスを使わせてもらいました。パリで乗り継いだ成田行エールフランス便はニューヨークからの便と同じ機材。同じ座席のシートテレビが壊れていました。

トライアスロンのような乗り継ぎフライトでした。いつもの往復であれば、時間配分なども慣れていますが、食事時間、睡眠時間、映画、読書、仕事する時間の配分をどうしたら良いかわからず、いつもより疲れました。

成田に近づくと、ほとんどの外国人乗客がトイレで着替え始め、ピシッとしたスーツ姿になり、オフィスに行って仕事する体制に変身していました。元気がみなぎっている欧米人のパワーに感服しました。

到着後にスーツに着替え、終日都内のオフィスで打ち合わせをしましたが、夕方になると、どうにも眠くなり、耐えられませんでした。楽しみにしていた会食の予定をキャンセルして、早寝をすることにしました。

#世界一周 #ヨーロッパまわり #2泊3日フライト

ほぼひとりごと 2021年9月2日(木)

宮益坂交差点

(写真は、宮益坂下交差点から取り壊されて東横店東館のあった方向を撮ったものです)

東急百貨店本店がオープンした時、戦争前から続いていた東横百貨店が名称を変え、東急百貨店東横店になり、東急バスの行き先も、東横百貨店行ではなく、今は普通に渋谷駅行の表示になっています。

東横線も、副都心線と相互乗り入れで地下の深いところに駅が引っ越し、車体の一部が案内所として使われていた、歴史的鉄道遺産の東横線5000型車両もハチ公のふるさと、秋田県大館に引っ越しました。

東急百貨店東横店も、東館、南館、西館の順に営業が休止され取り壊しが始まりました。あとには、スクランブルスクエアがさらに2棟建設されるようですが、たぶん、百貨店業態は復活しない気がします。

明治通りと交差する宮益坂下交差点に立つと、明治通り上にある東京メトロ銀座線の渋谷駅と、すでに東横線旧渋谷駅あとに建ったスクランブルスクエア東棟が目立ち、東横店南館の解体が進んでいます。

東横店南館の向こうに見えるのは、だいぶ前からあるマークシティとセルリアン、その間にあるのは建て替えられた渋谷東急プラザです。渋谷が東急グループの街だということが実感できます。

20世紀中盤、東急とはライバル関係だった西武百貨店が池袋拠点から渋谷に進出し、同じく西武系のパルコが開店しましたが、ずいぶん経った今も、渋谷は東急グループの存在感が圧倒的です。

宮益坂交差点に立って、360度首を回してそれぞれの方向での変化を確かめたあと、右に銀座線の駅を見てから、地下を走る東京メトロ半蔵門線のルートの上の宮益坂を青山方面に向かいました。

#渋谷東横百貨店 #東急グループ #スクランブルスクエア

ほぼひとりごと 2021年8月1日(日)

町田バスセンター

(写真は、小田急線町田駅のガード下を活用した神奈中の町田バスセンターです)

東急新玉川線(今の田園都市線)が開通する前、常時大渋滞だった玉川通りにバス専用車線が出来ました。歩道よりの車線が時間帯によってバス専用になりましたが、なかなか機能しませんでした。

歩道寄りの車線に駐停車中のクルマがあり、取り締まりも追い付かず、バス専用車線のメリットが活かせないことも多く、新玉川線が開通して、通過車両の絶対量が減るまでどうにもなりませんでした。

小田急線町田駅のガード下は、町田バスセンターになっています。バスセンターというと、バスタ新宿や名古屋やなどのように、もっと大規模なイメージですが、ここはコンパクトな構造になっています。

最大の特徴は、ひとつ前の停留所からバスセンターまで、真ん中の車線がバス専用になっていることです。真ん中の車線なので、駐停車するクルマや左折するクルマに邪魔されず、順調に走れます。

終日専用車線なので、最後は気持ち良くバスセンターのロータリーに入れます。乗車停留所は降車スペースと分離され、ロータリーの外側の歩道沿いに設置されているので、干渉されません。

小田急線のガード下で、3車線の道路を拡張し、到着するバスから降車するロータリーと、その外側の乗車停留所のスペースが確保できたという条件の良さもありますが、賢い選択だと思います。

町田バスセンターからの路線は各方面に向かっていますが、ひとつ前の停留所からは、どのバスに乗っても町田バスセンターに着きます。ラストワンマイルに一工夫した町田バスセンターでした。

#町田バスセンター #バス専用車線 #一工夫

ほぼひとりごと 2021年7月11日(日)

松陰神社前商店街

(写真は、東急世田谷線松陰神社前駅の踏切から撮った、松陰神社前商店街です)

子供の時、山口県萩市の松陰神社が本家だと知りませんでした。地元の氏神様ではないことや、境内で子供が遊べないとか、お祭りも予告もなく、一日だけで縁日も出ないなど、なじみの薄い神社でした。

松陰神社から、踏切を渡って、世田谷通りまでが松陰神社前商店街です。沿線では、三軒茶屋、下高井戸についで、賑やかな商店街だったと思います。ほとんどのことが間に合う店が軒を並べていました。

肉屋さんやクリーニング屋さんなどは、毎日のように御用聞きに来てくれていました。肉屋さんに、隣の八百屋さんから野菜を買って来てもらったこともありました。そんな時代があったのは50年以上前です。

踏切の横には本屋さん、パンも売っているお菓子屋さんと、内科のお医者さんがありました。パンを売っている精養堂は今でも残っています。内科の医者さんにもよく行って、太陽灯をあててもらいました。

出前をしてくれる食べ物屋さんも、日本そば、中華料理、うなぎ、お寿司などがあり、選び放題でした。日本そば屋の出前は自転車に乗って、片手で、曲芸のようにお盆を重ねて調子を取っていました。

たばこ屋さんの隣の和菓子屋さんでは、お饅頭やお団子など甘味のほか、かんぴょう巻やおしんこ巻などの海苔巻や稲荷ずしも置いてありました。今でもその懐かしい味を覚えているくらいです。

商店街の中に、小さなスーパー風のお店が出来たあと、近く本格的なスーパーも開店し、代替わりしたお店もたくさんありますが、昔からの店も残っている松陰神社前商店街は今でも賑やかです。

#松陰神社 #松陰神社前商店街 #御用聞き

自分(の仕事)史 2021年1月4日(月)

(四国での仕事)⇒POSレジ

四国での2年半、テレホンカードが絶頂期でした。グリーンの公衆電話が増え、いろいろなデザインのテレホンカードが発行されたほか、自分デザインも可能になりました。

ホールインワンや還暦などを記念し、額面にデザイン料などを加算した金額での自分デザインカードも普及しました。大ヒット商品となり、四国でも熱心に販売しました。

その結果、金券の取り扱いだったという課題もあって、いろいろなトラブルも発生し、社内処分の対象になったこともあります。少しばかり苦さも残る思い出になりました。

タルトで有名な地元のお菓子チェーン一六に、ISDN回線とPOSレジを組み合わせたソリューションを販売したことがあります。時代を先取りした営業だと自慢できました。

パソコン通信も始まり、FAXも最盛期でした。音声中心の通信から、通信回線でデータや画像をやりとりする時代が始まりました。結構、楽しい時間だったと思います。

営業推進部長だったので、四国4県を何度も回りました。高速道路は少しだけしか開通していなかった時代、下道を走り、JR四国の列車に乗って、景色を体感できました。

民営化して数年、瀬戸大橋も開通したころの元気な四国で仕事が出来たことは良い経験でした。社外での付き合いも増え、少し大人になったと思うような毎日を過ごしました。

アーカイブ:2001年9月11日直後のニューヨーク便り

ニューヨーク便り(2001年9月12日)

こんなことが起こるかということが起こってしまいました。いまだに知り合いの方が 複数名行方不明なので心配です。
朝の出勤をしてしばらくして、ふっと外をみたら、ビルの上の方から煙が出て、火も みえたので、あわててテレビをつけ、大変なこととわかりましたが、原因とかはわか らないままに、呆然としているうちに信じられないことになったのは、ご承知の通り です。オフィスから南方に比較的高層ビルがなくしかも41階なので、真正面にみえ るビルでした。

その時より、しばらくたっての方が怖くなり、震えるくらいでしたが、オフィスビル も次々に閉鎖となり、昼前から順次、社員を帰しましたが、交通機関も途絶したり、 ということで、結局最後に社員の帰宅を確認したのは夜11時くらいでした。電話も 通じなくなっていたので、別の地区に住む何人かで手分けし、時間がかかりました。

今日12日はマンハッタンへは来ないようにという指示もあり、さらにまだまだ火災 がおさまらないこと、橋もトンネルも通行が著しく制限されたので、自宅待機にし、 マンハッタンで出られる人だけ、出勤しました。他社も同じかそれ以上で、街はひっ そりという感じでした。

が、スーパーマーケットやレストランは11日からやっていて、売り惜しみも買い占 めもなく、商品もふんだんにあり、日本で何もないスーパーと報道されたらしく、い ろいろと聞かれましたが、平穏そのものです。ボランティアも始まったりして、なん となく大人だなという気がします。

飛行機も無事とんで元にもどるまでにはしばらく時間がかかると思いますが、こんな ところです。なお、13日から平常に戻ります。

 


ニューヨーク便り(2001年9月13日)

残念ながら、煙い街になっています。次々と倒れるビルをみていると、仕事やプライ ベートに出かけたこともあるところなので、複雑な気分です。また、グランドセント ラルステーションやエンパイアステートビルに爆弾をしかけたといういたずらのた び、オフィスの窓がゆれるたびに、ドキッとし、落ち着きません。
日本の航空会社が来ないとなると、心細いなとも思いますが、社員が復旧やあらたな 開通工事に汗を流しているのをみると、しっかりしなくてはと思い、元気な会社にな るように努力をしています。

13日からは平常通勤ではありましたが、上記のような騒ぎのおかげで、大事をとっ て帰る人も多く、気持ちも動揺しがちで、夜のタクシーの空車もえらく目立ちます。 それでも日本食をはじめ、レストランはすべて開いていて、まずまずお客も入ってい ます。スーパーの品物も朝早くから補充され、頼もしい限りです。

まだまだ混乱していますが、来週にはNYSEも再開し、だいぶ戻るのでは期待しています。

 


ニューヨーク便り(2001年9月14日)

1.14日は午前中雨、風が強く、捜索作業の困難さを考えるとたまりません。それ でも雨で、煙はなくなると期待していたのですが、午後晴れると昨日と同じような煙 が漂い、がっくりしました。今日は生存者が確認されなかったとのことです。夜7時 からキャンドルライトサービスということで、多くの人がろうそくを持って歩き、平 和を願うというものでした。
2.14日は爆弾騒ぎもなく、空港もきびしくチェックすることを前提に開港されま したが、国内線でも二時間半前には来るようにということで、空の旅も大変みたいで すが、きちんとやってほしいという気はします。5年前にくらべ、最近、格段にいい かげんになっていました。

3.アメリカ国旗がたくさん売れ、車、家、髪などにつけ、国家意識を高揚させてい ます。もともと、国旗を誇りに思っている人が多かったのですが、とにかく、旗、 旗、旗です。街でも旗売りが出ています。日本では、ないと報道された水はやまほど スーパーにあり、今のところ不便はまったくありません。レストランに入ったりする と何もなかったように思いますが、煙が消え、何もないと実感すると再度、大変なこ とが起こったということを実感することになりそうです。

4.NTTコム回線故障と大きく報道されましたが、それでもバックアップや代替回線 開通により、被災企業もふくめ、多くの企業が影響を小規模に抑えることができ、今 回、14丁目より北方に交換機があるという幸運にめぐまれ、最小限のご不便ですむ ことになりました。来週から復旧が本格化するので、しばらくいろいろなことがあり そうです。でも、お蔭様でお客様からおほめの言葉をいただき、ありがたいことで す。

 


ニューヨーク便り(2001年9月15日)

昨日午前の雨とうって変わって秋晴れの良い天気。空気もすみ、気温も10度台、半 そででは寒いほど。でも、煙は消えていません。
今日は自宅待機、たいしたことをしていなくても、休むとがっくり。外で働き詰の ニューヨーク市長や作業をしている人のことを思うと大変だと思います。ボランティ アそのものは、すでに充足され、食料もいらないということみたいですが、クレーン 運転の専門家など、プロがほしいそうです。

外にはいつもより人が多く、カメラを持っていたり、見物かなと思ったら、やはり、 規制のとれたダウンタウンへは人が多く入り、邪魔だとテレビで言っていました。ど こにでも野次馬がいるようです。それでも、近所のユニオンスクエアでの市はいつも と同じように開かれ、にぎわっているのをみると安心し、うそのような気がします が、その近所からみえた二つの高層ビルが消えてしまったのを確認するのがこわいと いう感じです。

昨日のろうそく、旗とともに、尋ね人のビラがあちこちに貼ってあります。特に近所 のレキシントンアベニュー25丁目に、捜索センターがあるので、余計です。

 


ニューヨーク便り(2001年9月16日)

昨日に続いて晴れの上天気。街の雰囲気も同じ。増えるのは星条旗の数。テレビでも 愛国心を高揚するような番組が続き、名誉を守るためにどうするかという論調。その 意味では他の国の雰囲気が伝わる日系マスコミの方がわかりやすい。
残念ながら、煙はそのまま、特段弱くなったという感じもなく、続いている。ただ、 近隣のアパートに住む人は、エスコート付という制限ながら、立ち入ることができた ということなので、落ち着きを取り戻しているのは確か。ブッシュ大統領も戦争への 準備と平行し、月曜からはBack To Workと国民に呼びかけている。株式市場も再開 し、一気に通常に戻ってくれればという気がする。

テレビは相変わらずニュースばかりを三大ネットワークやCNNはやっているが、一方 で通常の映画やコメディ、バラエティもやっており、選択の国らしい。不謹慎などと 言わず、きちんとわけるところが大人の感じがする。したがって、日本の新聞に出て いるバラエティなしは、三大ネットワークではという注釈が必要。月曜からはメ ジャーリーグも再開するし、ジュリアーニ市長も呼びかけ、さらに新聞でも言ってい るように、テロに対抗する最大の手段は、動ぜず、普段と同じことをし、アメリカの 飛行機にのるというもの、消費しないで、経済が失速するとまさにテロリストの思う つぼ。

いささか賛同しかねるところはあるが、確かにそうかも知れない。いろいろな意味で 複雑な状況になっている。

 


ニューヨーク便り(2001年9月17日)

週末に積み残しになっていた日本向けの乗客も大体が乗れて、予約も比較的簡単にと れるようになったそうです。ただ、デルタやコンチネンタルなどが不採算である東京 行きをキャンセルしたため、ツアー客がのれず、かといって別の切符はノーマルだ し、ホテルはすでに自己解決という状態の人がいるそうです。早く、正常に戻り、帰 国できるようになればと思います。
今日は晴天で、大分煙も少なくなり、いよいよ、あのツインタワーがなくなったこと をしみじみと実感しなければならなくなってきました。街はほとんど元のようになり ましたが、いろいろなところで規制や運休もあって、ところどころ、大渋滞があり、 通勤は痛勤になっているようです。電車や地下鉄が満員ということではありません が、通常が比較的恵まれているのでいるのでつらいようです。

ダウンタウンは証券取引所の再開で、近所への規制がとれたようですが、ビルの状態 はまだまだみたいで、エアコンが入らなかったり、ということのようです。それでも 自分の会社に戻れるというのはありがたいことです。被災した会社の不動産探しで、 一気に市場は逼迫し、当社のオフィスも提供することにしています。

大分落ち着きを取り戻し、テレビ番組も通常になって、ニュースばかりではなくなり ました。報復についても、だんだん理性が勝ってきた感じです。簡単に信じてはいけ ないのでしょうけど、それでも慎重な対応が望まれます。

 


ニューヨーク便り(2001年9月18日)

いつもはなかなか工事せず、いらいらし、お客様に文句を言われる、こちらのキャリ ア(通信事業者)ですが、証券取引所の再開のためにVerizonというこの地域の電話 会社がしゃにむに仕事をし、17日までに間に合わせただけでなく、当社の国際回線 のアクセスとして使っているキャリアも、常とはまったく異なり、きわめて短い期間 で開通し、復旧をしてくれます。奇跡と言われていますが、現実にそうです。やれば できるのでと思いますが、今だからだとは思います。こんなところにも復興に向けて のアメリカ、ニューヨークの熱意が伝わるようです。
気がついたことはタクシーの空車が多いこと。普段だとつかまえるのが難しい時間帯 でも、空車のタクシーの多いこと、ダウンタウンに人が少なくなっていること、人々 が出歩かず、ということかも知れません。ニューヨーク名物の黄色いタクシー、つか まらなくてイライラするのも困るが、空車ばかりなのは、さびしさを感じます。

 


ニューヨーク便り(2001年9月20日)

一日ニューヨーク便りを休んでしまいましたが、ニューヨークは20日、一日中雨で した。それも結構強く降ったりして、捜索活動に支障が生ずるのではないかと心配し ています。9月の雨ですから、一雨ごとに寒くなるのかも知れません。
ミュージカルの不振、航空会社のリストラ、等々、テロの効果が如実にあらわれてい ます。街から観光客の姿がめっきり減って、ホテルもガラガラだそうです。永遠に続 く景気をあてにしていた人たちにとっては、苦い秋になるのかも知れません。IT不景 気から続いているので、苦さもひとしおだろうと思いますが、それが社会不安に直接 つながらないようにと念じています。

国旗の需要はすごいらしく、在庫ゼロ状態だそうです。郊外に住んでいる人に聞くと ニューヨーク郊外の住宅地では国旗を出しておかないといけないという状況だそう で、引っ張りだこになっているようです。マンハッタンでもビルや店は国旗ばかり、 国を愛するということでは、すごいなと思う反面、彼らの敵になったら無気味だなと も感じます。アラブ系の人が襲われたということも聞きます。自由でおおらかだった 街、国が自由を守るために、ある種の自然発生的な規制ができつつあるように思えま す。杞憂かもしれませんが。


ニューヨーク便り(2001年9月22日)

旗の増産ができたみたいで、至るところで売っています。あとは青と白、赤のリボン を胸につけたり、バッジをつけたりとアメリカ一色です。ここにいると気が付きにく いですが、西海岸から来た人に聞くと、人々の表情が暗いというようです。確かにカ リフォルニアの底抜けの明るさだけでなく、いつも比較しても、そうかも知れませ ん。
日本レストランも、宴会などをしている人はいないという状態みたいです。クリスマ スパーティのキャンセルもあるらしいという話もあり、経済の先行きにかげりが出て いるのでしょう。ここで働き、お金を使いましょうという呼びかけがあっても、航空 会社の解雇など、好景気を享受した産業への影響も現実のものとなり、しばらくは我 慢みたいです。

が、そんなことをしていては、十分テロの効果あり。暗さの一方で、ビジネスは徐々 に開始され、世界の中心、アメリカの中心、ニューヨークの復活に向けて、動き出し たことも確かです。まだ、完全ではなく、お客様にはご迷惑をおかけしていますが、 それでもアメリカを復活させるという意欲と熱意がアメリカの通信事業者からも直に 伝わってきます。

オフィスがダウンタウンにあったため、通信に障害のあったTVジャパン(NHKの国際 放送プラスα)も、日本からの放送をほとんどそのままに流し、夜中におかあさんと いっしょを放送するという奇妙な状況だったのが、今日22日から通常に戻りまし た。TVジャパンと一日2時間放送するフジTVとが頼りでした。アメリカの放送と両方 みると、ああこんなことだとわかります。インターネットしかり、かつての時代だっ たら、さぞかし不安だったと思います。

 


ニューヨーク便り(2001年9月23日)

元気を出そうということで、仕事に戻る、NYで買い物をする、半旗をやめ通常にする など、で、一見平常ですが、最近になって一時の平気だという感じより、普通ではな いなという気持ちが強くなって来ました。カリフォルニアから来た人に言われてそう 思い、そのあと、自分で確認しました。逆に時間がたった方がズシンと利いてきま す。
仕事の方はすこしづつ進み、なんとか、24日の週にはめどをたてたいと思っていま す。日本の報道では次のテロにおびえるNYという記事がありましたが、一方で、オ フィス需要は当然強く、被災企業が場所を確保するのは至難の技みたいです。確かに 怖くないかと言われれば、怖く、ダウンタウンへはいつになったら行く気になるか自 信もありませんが、NY復興という命題のもと、アメリカ企業としてなんとか、役割を 果たしたいと思っています。今のところ、なんとか、責務を果たしていると自負して いますが、それでも足りないことだらけ、毎日、お客様に、社員に、家族に教えても らう感じです。ありがたいことです。わかれば即断即決、なんとかなります。問題は 問題をわからないこと。うまくいっているという報告をしたいという気持ちにならな いよう、生の情報を自分の目でみて、つかむようにしています。

消防士、警察へのニューヨーク市民の信頼が、もともと高かったところ、今回のこと で、ますます上昇しています。かつて犯罪の巣窟と言われたころと比べるとおそら く、大きな違いなのだと思います。寄付も尊敬も、ということです。これがアメリカ の結束の源かも知れませんが、行方不明者、犠牲者の中には、アラブ系もふくめ、ア メリカ以外に60数カ国の人がいたという事実ももっと重視してほしいという気がし ます。

 


ニューヨーク便り(2001年9月24日)

初めて、仕事でWallストリートに行って来ました。地下鉄の走っているブロードウエ イの西側に現場があります。駅から目的地のビルまではみえるところがありませんで した。一駅北に歩けば、見えますが、見られませんでした。結局、ビルと駅を往復し ただけです。11日から数日、会社と自宅の往復以外、どうしても横に曲がりたくな い状況が続いたのと同じで、何か後押しされるきっかけがあるまでは行けないかも知 れません。
ビルは灰だらけのままで、電気は自家発電。外に移動電源車が置かれ、供給していま す。そのため、エアコン、空調なし、エレベータは間引き、照明も一部だけ、暑く、 空気の悪い中で、仕事をしていました。ミッドタウンのオフィスでは何も不便なこと はないのにくらべ、ここは戦場だと痛感しました。店も開いていないところが多く、 なんとか、証券取引所を再開するためにがんばったという感じです。再開して一週間 ですから、先週はもっと大変な厳戒態勢だったようです。

一方、復旧は確実に進んでいます。元気のもとになればと思い、しっかりとやってい ます。

 


ニューヨーク便り(2001年9月26日)

JALもANAもガラガラだそうです。特に日本からの便が空いているみたいです。こちら からは50%程度は乗っているとのことですから、3割ということみたいです。予定 していた団体や視察は全部キャンセル、観光客も当然少なくなっています。日本食レ ストランでも宴会は皆無、気分的にものらいないようです。こちらの日本人親睦施設 日本クラブもパーティのキャンセルだけで、40件近くとのこと、シーズンに向けて 暗い話ばかりです。
これじゃ、早晩、経済状況は急降下、失業者があふれることも最悪の事態としては、 否定できません。いつもは底力のあるアメリカ、まだまだ大丈夫と強調しています し、確かにまだまだファンダメンタルな部分はたいしたものと思いますが、あまりに も急激に変化すると、さすがに補正もきかず、一気に不景気に突入ということも考え られないわけではありません。

こちらでも、経済的に参ってしまうということも言われ始めているようです。心配し て準備をするということと、とにかく、不況にならないように取り組むということを いかに両立させるかが、問題だと思います。難しい課題をどう乗り切るか、別の意味 でのアメリカの危機管理が問われると思います。

 


ニューヨーク便り(2001年9月27日)

本格的な秋が来たようで、朝は10度以下です。捜索活動はまだまだ続いています が、大変だと思います。トラックのマンハッタンへの乗り入れ時、中をしっかり検査 するなど、あらたなテロ対策を講じていると聞くとぞっとしますが、被災された会社 の落ち着き先も次第に決まり、当社のオフィスを使ってもらっている被災企業の表情 も少し明るさを取り戻したようです。忘れるわけにはいきませんが、前を向くという 姿勢でのぞめるようにはなったということだと思います。
暗い話ばかりでなく、復興に向けた動きもあります。ワールドトレードセンターを建て直し、今度は50階くらいのを4棟建てるという案や、2012年オリンピックへ の立候補という案など、みらいに向かって元気になっています。ぜひとも、平和に実 現し、その日が来ることを祈念しています。

ニューヨークのアフガニスタンレストランが嫌がらせをされたようですが、現在は逆 にニューヨークの人たちで込んでいるようです。そういう多様なところがニューヨー クの良いところだと思います。

 


ニューヨーク便り(2001年9月30日)

昨日からエンパイアステートビルの展望台が再開。並んでいる人がTVにうつっていま した。次第に普通になるのは歓迎ですが、じゃ、自分が行くかというと、考え込んで しまいます。飛行機で出張した社員も、ガラガラでびっくりと言っていました。飛行 機は今こそ、チェックもきびしく安全だと頭では理解しても、社員にできれば鉄道で 帰って来られないかと言ってしまいます。
今日は午後から冷たい雨、日曜は買い物客でにぎわうデパートも閑古鳥。昨日の夕方 の街は結構にぎわっていたのですが、今日はだめ。午後一番で降りだしたので、さ あ、出ようという気持ちに水を差したみたいです。

どこかで、割り切って、普通に戻らないと、どんどんと景気が悪い方向に向かってし まいます。ということで、このレポート、今回を持って事件後のニューヨーク報告で なく、普通に戻りたいと思います。

みんな、これじゃ、だめ。しっかりとしなくてはとか、普通にしなくてはと思ってい るのですが、本当のところはまだまだです。とにかく怖いのは確かですが、怖さを しっかり受け止めて、きちんと対策をたてて、楽観的に対処しないとやりきれませ ん。最悪は、忘れたほうが良いとばかり、今回の事件を無視し、考えないというもの です。気持ちはわかりますが、怖さと向かい合うことも必要だと思っています。

要は、用心しながら、いろいろなことをする。交通事故、地震対策、あたりまえに やっていることをやれば、良いと思って明るくしたいと思っています。どうか、よろ しくお願いします。

ご心配いただき、ありがとうございました。

 


 

今週の「思いつくまま・・」2019年3月4日(月)

沖縄から、離島に向かう船の出る泊港で、食事をしました。たしか、ゴーヤチャンプルを食べたと思います。お気に入りの沖縄料理です。別の機会に沖縄の宮廷料理みたいな豪勢なメニューも食べましたが、一番はと聞かれれば、ゴーヤチャンプルです。

スパムというソーセージと卵が好きなので、そこに入ったゴーヤの苦みも気にならない

というか、結構良いなと思いました。泊港のレストランには、ハンバーグとか、焼き魚というようなものもありましたが、港で働く人も食べている大衆食堂のゴーヤチャンプル、美味しかったです。

那覇から、クルマで30分くらいのところは、那覇市ではありません。通勤圏なので、クルマやバスの行き来もあり、モノレールも徐々に延長されています。そのうちのひとつが宜野湾市です。以前、会った前市長は県知事選に出るために辞職をしましたが、印象的な街でした。

市庁舎に向かって、普天間基地を飛び立った飛行機が離陸します。羽田空港を離着陸する飛行機が、都心を通るという話ですが、滑走路の延長に宜野湾市があり、滑走路を宜野湾市の市街地が取り囲んでいます。昔、ヘリコプターが墜落した大学もその中にあります。

普天間基地を、辺野古に移転するかどうか、現状を考えると、普天間基地がこのままで良いかと言われるとNOということになりますが、じゃ、辺野古が良いのかと言われると、また、沖縄かという印象を地元の人が思うのも仕方ないことだと考えますが、はっきりとは言いません。

以前、沖縄振興策として、いろいろな会社が進出をしました。お金をやっているのだから、文句を言うなではなく、一緒にやって行こうという姿勢はあったと思いますが、今は感じられません。内緒ですが、保守系と言われている市長も、前県知事も、気持ちは同じだったように思えました。

今週の「思いつくまま・・」2019年2月25日(月)

2月23日は来年から天皇誕生日になります。5月に新天皇が即位することになるので、今年は天皇誕生日がありません。歳末の忙しい時期の祝日でしたが、クリスマスイブの前日、ホリデーシーズンにとっては、貴重な休日でした。 “今週の「思いつくまま・・」2019年2月25日(月)” の続きを読む

今週の「思いつくまま・・」2019年2月18日(月)

長いこと、工事中だった東京駅が完成しました。皇居に向けて、行幸通りもきれいに整備され、歩きやすくなりました。首都の中央駅としての威厳という感じもします。オランダのアムステルダム中央駅をモデルにしていると言われていますが、そんなに似ている感じはしませんでした。 “今週の「思いつくまま・・」2019年2月18日(月)” の続きを読む