自分(の仕事)史 2020年8月31日(月)

(新聞記者)

幸い、通産省に出向しているころ、新聞記者との接点はあり、大臣出張に同行した記者の人たちなど、いろいろな議論や話ができる人と知り合いになっていました。

役所みたいだった電電公社時代から、記者クラブがあり、クラブの部屋と広報部報道担当の部屋とは、相互に自由往来できるようになっていて、共存共栄状態でした。

担当課長は新聞記者担当の窓口の役割を担っていました。麻雀をしない、お酒もあまり飲まない、ゴルフをやらない自分につとまるか不安でしたが、なんとかなりました。

通産省時代から、狎れ合いではなく、互いの立場をわきまえながら、率直な情報交換や意見交換をしたという経験が生きたのだと思います。肩に力を入れずに済みました。

通産省時代もそうでしたが、20代や30代前半であるにもかかわらず、幹部層と話をする機会も多く、えらい人だからと遠慮も忖度もできない経験をすることができました。

生意気にも自分の意見を堂々と言ったことが、そのあとの人生で、良かったのか悪かったのかはわかりません。今思えば、やり過ぎと思われたのかも知れません。

新聞記者のみなさんと対等に話をする機会を持てたということは、大変貴重な経験だったと思います。今、報道されている記者のみなさんとは違っていたような気がします。

自分(の仕事)史 2020年8月24日(月)

(成長は続く)⇒家庭用FAX

1978年に、申し込めばすぐ設置できることになっても、固定電話の成長は続いていました。ピークを迎え、設置数が減り始めるのは、21世紀を迎えてからになります。

民営化して、成長がピークになるまでの15年間は、テレホンカード、テレホンサービスなどから始まり、電話回線を使ったさまざまなサービスが百花繚乱状態になりました。

宴会や会合のお知らせが、手紙からFAXに移り、言った言わないというもめごともないことから、一気に普及し、FAX紙を持って、宴会に出かけるのが普通になりました。

ポケットベルを使った出会い系サービスの走りや、伝言ダイヤル、ダイヤルQ2のような風俗系サービスや、偽造テレホンカードなど、問題も発生することになりました。

そんな中、2年半過ごした、名古屋から、東京に戻ることになりました。営業関係の課長だったのが、1987年2月に広報部の報道担当課長として着任しました。

民営化のためのCIや、NTTとしてのイメージチェンジで、広報部は突然脚光を浴びることになりましたが、新聞記者対応を中心とする報道担当は縁の下の仕事中心でした。

うまくいって当たり前、妙な記事が出たりすると、社内外から抗議を受ける立場でした。着任して感じたのは、民営化によるご祝儀相場が終わりかけているという事実でした。

家庭用FAXや、FAX専用通信網をどう売るかなど、営業推進の仕事に専心していた、名古屋でのポジションから、重要だけれども、あいまいなミッションの職場になりました。

自分(の仕事)史 2020年8月17日(月)

(システム化の始まり)

営業担当の課長として、民営化後最大の課題は、明治時代以来、紙カードで管理していた、お客様(加入者)の異動記録を電子データ化するための作業でした。

電話をひいた時に、支払った負担金がいくらだったかから始まり、電話加入権が誰に渡り、どこに電話が設置されたかというデータがすべて紙カードに記されていました。

全国にたくさんあった電話局の窓口では、ロータリーファイルという書庫に、電話番号順に紙カードを補完し、その中から時間をかけて探すという作業を行っていました。

電話局には、電話番号ごとに端子が収容され、電話局の外に出て、それぞれの回線が、事業所や住宅に向けて配線され、電話交換機で通話が接続されていました。

民営化前から、計画されていたシステム化が本格的に動き出し、すべての紙カードをコピーして、当時のシステムの文法にしたがってデータベースとして入力しました。

そのころのデータベースは、かな漢字をコードに変換して蓄積していました。今のような平文での入力ではなかったので、変換に手間がかかり、間違いも多々ありました。

渡辺さんの辺(なべ)のように、いろいろな文字や旧字を使うのも、コードでは単純な音だけにしてしまったので、あとで、元に戻すのに苦労した例もあったようです。

紺屋の白袴と言われても、仕方ないほど、初歩的な問題を抱えながら、紙カードのデータベース化が行われました。今でもその名残りが消えたわけではありません。

自分(の仕事)史 2020年8月10日(月)

(民営化しました)

1985年3月31日と4月1日の間に大きな差があったわけではありませんが、気持ちは変わったという意識は結構大きかったと思います。明日は今日ではありません。

これまで、ほぼ官営の電電公社で、国の予算と一緒に作られていた事業計画でしたが、最初は形式的な面もありましたが、独自に事業計画を作成することになりました。

以前は、国会での承認が必要で、国の予算作成プロセスと一緒でした。民営化してからは、監督官庁の郵政省の認可という形式になりました。これはこれで大変でした。

逓信省として、一緒だった郵政省ですが、民営化論議の中で、政治や人事も巻き込んで、立場を異にすることもあり、民営化までの間、激しい権力闘争がありました。

最大の課題は、一社で民営化するか、国鉄のように分割するかということでした。国鉄で深刻だった組合の問題がなかったこともあり、結局、こんな形になりました。

それでも、この課題は消えたわけではなく、その後も競争導入、規制の在り方などと一緒に、議論が続き、事業ドメインの見直しと引き換えに、1999年分割しました。

1985年4月1日は、将来、分割されるとか、事業ドメインが見直されるなどとは考えず、民営化して良かったと思われるようにしたいということがみんなの気持ちでした。

国鉄も同じか、組合が強かったことと、恒常的な赤字だったことで、電電公社よりも民営化のインパクトは大でした。エキナカが整備された今からは想像もできません。

自分(の仕事)史 2020年8月3日(月)

(テレホンカードから)

大手クレジットカード会社の上級会員向けのノベルティとしてのテレホンカードを大量に販売するなど、民営化を前にして、テレホンカードは変革のシンボルになりました。

一方、在来型の仕事をしていた幹部の中には、動きについていけない人もいるなど、このような時期だからこそ、頼れる人かどうかが、はっきりとわかってしまいました。

もっとも、その中には、民営化後に、幹部として昇進した人もいました。入社して10年、現実に気づくことも増え、信頼する、信用するという意味を考えさせられました。

民営化前の3月、すべてのお客様を手分けして訪問しました。割り当ては愛知県の岡崎市郊外の新興住宅地。寒い冬の午後、マッチ売りの少女のような経験をしました。

正直なところ、現場ではどうなるのか、わからないままに、民営化を迎えました。労働組合も対応には苦慮したと思います。ついに、作った計画が現実のものになります。

4月1日に出勤した時、名古屋市上前津にあった、建物の看板が、日本電信電話公社東海電気通信局が日本電信電話株式会社東海総支社に変わっていました。

看板だけでなく、民営化という言葉の魔力だったのか、35年経った今、大きな変化を実感していますが、民営化した直後は、それまでと同じ日々が続くだけでした。