自分(の仕事)史 2020年5月25日(月)

(休めない)

入社して7年弱、本社の係長になって、やっと一人前に扱われました。ひどい風邪をひいて、高熱が出ても休めません。(今だったら、大変なことになったと思います。)

私が2月に着任する前、まだ、係長としての仕事に慣れていないころでしたが、年始からほとんど休んでいなかった係員に休んでもらって、ひとりだけ休日出勤しました。

一人前になったとは言っても、何もできない係長、上司には怒られ、せっかく休んでもらった係員を呼び出せと指示されたのに対し、なんとか耐えた苦い記憶があります。

上司が幹部説明に行っている間、本社ビルの3階にあったオフィスのベランダに寄りかかり、飛び降りたら、ラクかなと思いましたが、3階なので、やめることにしました。

3階から飛び降りたら、どうなるのかなと考える余裕が残っていたのが幸いしたのでしょう。もっと高い階だったら、思わず、引き込まれてしまったのかも知れません。

なんとか、この日を乗り越えたのが、自信につながっていったような気がします。早くなりたかった一人前の係長ですが、まだまだ、半人前だということを体感しました。

このころ、熱が出ても、無理して出勤することは、武勇談になりましたが、今だったら、とんでもないことになるところです。時代の変遷を感じたエピソードでした。

自分(の仕事)史 2020年5月18日(月)

(茶碗の思い出)

入社してから、集合研修をはさんで、現場と本社での見習を3年間行ったあと、現場係長に就任します。そのあと、入社して4年半経ってから、通産省へ出向しました。

電電公社では、現場係長もふくめ、入社からの5年間が研修期間です。そのあとの通産省は驚くことばかりでした。まさにOJT(実践研修)、いろいろなことを学びました。

最近は、幹部候補生が、現場の仕事を経験することや、末端の係員としてお茶くみやコピー取りなどの雑用をすることについては、無駄なのではと言われているようです。

最初から、幹部として処遇されるアメリカのやり方にくらべ、このようなキャリア方式は、下積みの期間が長いことから、外資への人材流出の一因とも言われています。

現場や下積みを経験することは決して悪いことではありませんが、部門を閉鎖したり、リストラする必要がある時に、冷徹になりにくいという弱点もあると思います。

年功序列的な昇進・昇格の陰で、年令が増すにつれ、仕事が偏在し、希望退職を行いたいという理由となる、キャッチアップできない人が増えるという事実もあります。

えらくなると、赤鉛筆を持って、訂正するだけで、朝来るとお茶を飲んで新聞を読み、説明や報告を待つというのが典型的な時代だから、通用したことかも知れません。

自分(の仕事)史 2020年5月11日(月)

(3公社5現業、特に国鉄)

国鉄、電電、専売が3公社。郵便、造幣、印刷、林野、アルコールが5現業。3公社5現業と呼ばれていました。それぞれの事業が、転機を迎えることになっていました。

特に、国鉄は、航空機やクルマとの競争が本格化し、1964年の東海道新幹線開通以後、赤字決算が続き、複雑な事情を内包した、組合問題を抱えていました。

電電公社の不祥事発覚と同じ時期にし、国鉄でも、職場規律の緩みや、いろいろな課題が山積することになり、何らかの改革がないと存続できない状態になっていました。

1964年、東海道新幹線が開通するまでは、九州や北海道はもちろん、大阪や名古屋でも、夜行列車が設定され、夜通し、列車の中で過ごすのが当たり前でした。

東海道新幹線開通で、名古屋や大阪への日帰りが当たり前になることで、10時間以上、列車に揺られるより、高くても、速い飛行機が選ばれるようになったと思います。

赤字になっても、しばらくの間、1968年の大改正や、新幹線の岡山、博多開通など、成長路線を取っていました。陰りがダイヤに反映したのは、そのあとのことでした。

行政改革の目玉はそのままでは存続が難しくなった国鉄の改革でした。電電、専売が先鞭をつけ、2年後に旧国鉄が解体され、JR7社が設立されることになりました。

自分(の仕事)史 2020年5月4日(月)

(固定電話)

1890(明治23)年に、東京と横浜で電話サービスが開始され、途中、第二次世界大戦での破壊を経て、1978(昭和53)年には、電話設置の積滞が解消しました。

同時に、日本全国すべての地域が、交換手による手動接続通話ではなく、ダイヤル通話できるようになりました。88年かかって、ここまで到達することになりました。

電話設備を建設することを目的にした電電公社は、膨大な設備資産を活用してもらい、さらには、電話の次につながるサービスを提供することが目標になりました。

テレホンサービスや、留守番電話など、話し中をなくし、つながる回数を増やし、確実に通話料収入を得られるようにするため、いろいろな工夫を重ねることになりました。

テレホンカードが一番目立った成果でしたが、その他、トラヒックセールス(通話増キャンペーン)として、帰るコールなど、いろいろな施策を繰り広げ、増収をめざしました。

携帯電話が普及するまでは、固定電話が主役でした。高値の花だった自動車電話は一般には普及せず、ダミーの車載アンテナを付けるのが流行りになったくらいです。

ビジネス用だったポケベルで呼び出したり、ポケベルの液晶画面で数字を使った意味のあるメッセージを届けたりしたのが、移動通信手段一般化の走りになりました。

本社係長のあと、民営化をはさんで、名古屋で営業を担当する課長になった時は、利用促進施策を推進することがミッションになりました。簡単ではありませんでした。