気ままなおもいつき 2019年12月30日(月)

(通産省に出向しました)

どんな仕事をしたかは、11月25日(月)に書きましたが、出向した先は出来たばかりの通商政策局中東室という小さな組織、電電公社とは関係のない仕事でした。

1974年の第一次石油ショックに続き、イラン革命、ホメイニ師登場にともなう、第二次石油ショックと言われたころ、省内で注目された組織の一員となりました。

研修中だった電電公社では経験したこともない仕事を、右も左もわからない組織の中でやることになりましたが、感じたのはストレスではなく、やるぞという気持ちでした。

正式の国家公務員ではない、出向者としての立場ですが、ポジション的には、係長から課長補佐の間。同期で入省したキャリアと同じように扱ってくれました。

その上、上司のうち、室の総括担当課長補佐が、病気で休務することになり、その仕事までも回ってきたので、突然、組織の番頭みたいな仕事をすることになりました。

通産省には、他省庁や、銀行、損保会社などから、出向者が何人かいて、出向元の仕事と直接関係ない部署に配置され、国家公務員と同じ気持ちで仕事していました。

その中でも、石油の安定供給とうことで、新聞やテレビなどのマスコミで話題になる中東地域との経済関係を担当は、注目を浴びるやりがいのあるポジションでした。

気ままなおもいつき 2019年12月23日(月)

(そのころのストレス)

そのころのストレスはぜいたくな悩みでしたが、高校や大学の同級生の多くが、就職して、一人前に仕事をしているのに、まだ見習いから出ていないということでした。

当時は余裕があったのですが、一人前に仕事をしていると言われるようになるまでには、5年ありました。現場研修、本社研修、そして、現場係長としての研修です。

一生、その会社にいる終身雇用、本社採用として計画されているキャリアデベロップメントプランのもとの人材育成してくれたのですが、複雑な気持ちでした。

同じ公共企業体だった国鉄も、同じように、現場研修があり、当時は、車掌や駅員、保線などだけでなく、ブルートレインや特急の運転手までを経験したそうです。

今はどうなっているか、知りませんが、警察は入庁して数年で、警察署長になったり、他にも、郵便局長や、税務署長に、若いキャリアが就任していたころの話です。

入社5年目の、1979年夏、電話交換部門の縮小にともない、職場転換研修が行われ、その最中に、人事異動があり、出向するとは夢にも思いませんでした。

気ままなおもいつき 2019年12月16日(月)

(初めてばかりの経験をしました)

1975年に就職して、導入研修に続いた15か月余りの現場実習のあと、本社実習を1年半。初めての残業を経験したり、一人前になったかなという感じになりました。

最初に覚えたのは、係の人たちのお茶くみ。自前の湯飲みや、好みを覚え、ひとりひとりに満足してもらうようになるまでが大変でしたが、後年役には立ちました。

10年以上経って、担当課長になってから、会議でお茶を用意する際、同じように入れるための工夫をしたら、入社からさほど経っていない後輩から、褒められました。

それと、朝一番の机ふき、その他にも、いわゆる雑用を当たり前のようにしました。その上、任された仕事をやらなければならないというのは容易ではありませんでした。

先輩に教わりながら、自分で覚えるようにしましたが、当然、失敗もしました。現場では後始末の面倒を見てくれましたが、本社では自分でなんとかしないといけません。

そんなこんなの本社研修のあと、現場で電話交換担当課の係長になりました。25才、同僚の係長は、母親と同い年と、6年上の女性。交換手は全員女性でした。

職場でのもめごとの調整がうまくいかなったり、課員の不倫を注意したりとか、いろいろなことがありましたが、現場の悩みも実感しました。あとになって役立つことでした。

気ままなおもいつき 2019年12月9日(月)

(入院遍歴)

40才になって、初めて人間ドックを受診しました。そのあと、胃のX線検査で飲んだバリウムのかけらがエコーで見える間に、十二指腸潰瘍で入院しました。

最初の一週間は、原因がわからなかったのですが、小腸検査をしようとする前にやった胃カメラで、すでに治っている十二指腸潰瘍が発見され、事なきを得ました。

原因はストレス、クルマをぶつけられ、損保会社ともめていたことと、ストレスが多く、他人に相談できないような案件を抱えていたことです。総務部で仕事をしていました。

点滴だけで過ごした1週間のあと、原因が分かったので、重湯からスタートし、普通職になったところで退院しました。回診も簡単になり、体力の回復だけの期間でした。

2週間の入院でしたが、体力は落ち、退院したら、地下鉄の階段を上れません。バスを乗り継いで、出勤した記憶があります。足が大事だということを体感しました。

20年後も、ストレスと加齢が原因で、心臓病の専門病院に入院しました。おかげ様で、一病息災、5年経った今も、血圧や体重のコントロールをしています。

リタイアしたら、代謝が良くなり、体重が増えなくなりました。また、免疫力も回復したのか、体温が少し上がりました。調子に乗ってはいけませんが、快調です。

仕事とストレスは隣り合わせ、簡単に仕事を辞めてしまうわけにはいきません。ストレスとうまく付き合うにはどうしたら良いかが、自分にとっての命題でした。

気ままなおもいつき 2019年12月2日(月)

(体調不良(30才になるまで))

先々週から、風邪をひきました。症状からするとインフルエンザではないようで、いつものような経緯をたどって、咳が出て、熱が38度以上になり、だるくなりました。

昔と違うのは、治りが緩慢になったこと。多少マシになったと油断をすると、そこで回復が止まり、復活することができませんでした。風邪が休むのが一番を実感しました。

以前は、風邪になるのは週末で、月曜日には何もなかったように出勤することが出来たり、朝、調子が悪くても、忙しくしているうちに風邪気味を忘れてしまうほどでした。

20代のころは、徹夜同然の生活を繰り返していても、翌日の仕事への影響はそれほどではありませんでした。眠かったとは思いますが、普通のくらしが可能でした。

20代は、入院したり、大病したこともありませんでしたが、39度を越えるような熱が出たことがあります。過労だったと思いますが、まっすぐに歩けませんでした。

人生二度目の、尿管結石を病院で腰痛と間違えられ、何日分の診断書が欲しいのかと聞かれました、その日は職場に戻り、痛み止めを飲んで、夜中まで仕事しました。

夏だったので、大量の麦茶と西瓜、同僚が付き合ってくれたビアホールで、飲めないながら、大量にビールを飲み、知らないうちに結石が出て、忘れることが出来ました。

それと、神経性腸過敏症。通勤ルートの駅のトイレに詳しくなりました。振り返れば、ストレスもあり、結構繊細だったのかも知れません。電電公社に戻るころの話です。

気ままなおもいつき 2019年11月25日(月)

(外へ出ました)

通商産業省(現在の経済産業省)に出向し、中東担当になったのは1979年、電電公社に入社して4年と少し、久喜電報電話局電話運用係長からの異動、26才でした。

中東が燃えていた時代だったのと、通産省が一番元気だったと思っている時代だったので、それまで経験していなかったいろいろな経験を通じ、外に出た感じがしました。

大臣や局長などの通産省幹部、国会議員、新聞記者、大使館員、大企業の幹部その他と触れ合う機会が増えました。思ったより怖くなく、若手の話を聞いてくれました。

通産省の職員だから聞いてくれているということには、気づきましたが、自分の価値が上がったのではと錯覚しても仕方ないくらいでした。怖いものなしでした。

気をつけたのは、約束を守ること、嘘をついたり、ごまかしたりしないことでした。100点取れたとは思えませんが、自分の言葉に責任を持つことの意味を痛感しました。

電電公社にいただけでは、中の論理だけになり、価値観もそこで壁にぶつかっていたかも知れません。中だけでも十分、自己実現できる規模の組織だったのは確かです。

外へ出たことで得られたものは数知れません。中央官庁はすごいなと身を持って感じることができたことが一番です。日本を背負っているという自負心を教わりました。

気ままなおもいつき 2019年11月18日(月)

(いつの間にか)

独自の特殊言語や機能を使った大型コンピューターと違って、誰でもが使えるインターフェースを持つパソコンや、タブレットの世界は英語から始まることになります。

英語の問題、欧米主体のルール作り、高度成長期の成功体験が強烈な日本の慢心、冷戦終了後の、G7国以外の急速な経済成長など、いろいろなことがありました。

通産省の時は、欧米に学ぶという姿勢はありました。15年後には、ステレオタイプで、欧米は斜陽、欧米人は怠惰だときめつけて見ているように思ったことがあります。

第二次世界大戦のトラウマ、終戦後の占領時代、高度成長期の体験が、情勢分析の際の冷静さが減少し、ジャパンアズナンバーワンとその通り信じてしまいました。

単なるしろうとの感覚ですが、ジャパンアズナンバーワンの気持ち良さが続くと、いつの間にかそれが当たり前のこと、永遠の定理のように思えてきました。

ニューヨークタイムズ紙での日本関係記事の頻度や内容を見たり、店頭を眺めると、安くて、丈夫な製品を作っている国と思われているだけということを痛感しました。

2003年、日本に帰国するころには、2001年の9.11後の環境が変化し、アップルの復活、グーグル、マイクロソフト覇権がいつの間にか始まっていました。

気ままなおもいつき 2019年11月11日(月)

(15年後の現実から考える)

通産省での仕事から15年後、ニューヨーク勤務を経験することになりました。ジャパンアズナンバーワンの余韻がある、日本人駐在員が元気だった時代の最後でした。

ロックフェラーセンターや、映画会社が日本企業に買われ、日本の土地の値段と、アメリカの土地の値段が同じと言われた時期が日本の最盛期だったと思っています。

マンハッタンのソニービルや、タイムズスクエアの日本企業の看板など、日本の露出はすごかったですが、慣れるに連れ、違和感を持つようになりました。

家電量販店に並んでいるソニーのテレビの値段は、アメリカ製、韓国製と変わりませんし、高級車ブランドのレクサス以前のトヨタや日産は、安くて丈夫が売り物でした。

グローバル企業に肩を並べることのハードルの高さを痛感しました。他の企業もそれぞれの市場や分野で苦労していました。ソニーやトヨタの現実と同じでした。

後発だった、韓国や中国製品の品質向上、アメリカ式の大量生産をさらに改善した日本式生産の普及などにより、日本の強みが徐々に失われることになりました。

改良によって、商品価値が上がって、市場をリードできた工業製品と違い、ソフトウエアや、OSなど、ITにつながる分野は創造力と英語が必要な分野でした。

気ままなおもいつき 2019年11月4日(月)

(日本が主役になりそうだった時代)

資源のない分、アイディアと技術で勝負しようという気概があふれていた時代だったと思います。オートフォーカスのカメラや、ウォークマンもこのころ新発売でした。

カリフォルニアのマスキー法に端を発した、自動車の排ガス規制技術も日本が先頭でクリアし、ドイツやアメリカがもたもたしている間、前進を続けることになりました。

太陽熱を利用して、海水を淡水化する技術も、日本以外ではまだまだだったと思います。UAEのアブダビに技術協力で建設し、夢を実現することになりました。

サウジアラビアから、商業大臣が来日した時、ソニーの研究所でハイビジョンの実験を内緒で見せてもらいました。信じられない高精細に目をみはりました。

国内市場は、団塊の世代が結婚し、団塊ジュニアが生まれるなど、増えていく人口や都会への労働力集中で、ますます活性化し、作れば売れるという時代でした。

ブラックのような環境での仕事でしたが、楽しく、エキサイティングな記憶がたくさん残っています。このあとのことですが、バブルにつながっていく序章だったと思います。

パックスブリタニカ、パックスアメリカーナの次はパックスジャポニカだと言われたこともあったと記憶しています。本当かなと思いましたが、結局夢で終ったようです。

気ままなおもいつき 2019年10月21日(月)

(ジャパンアズナンバーワン)

驚いたのは、中東の国々が、日清、日露戦争を高く、評価してくれていたということです。ジャパンアズナンバーワン前の、この時代、日本は希望の星だったと思います。

日本の立場も微妙ですが、昔、エスタブリッシュメントと言われてい国た以外で、先進国入りしたのは、日清、日露戦争後の日本だけということも事実だったと思います。

それまでは、狭い視野でものごとを見ていたのが、地政学的な見方の一端を経験することになりました。平面の地図から、地球儀のように立体的になったとも言えます。

すごい国になったUAEのアブダビで、水不足解消のため、太陽光利用海水淡水化プロジェクト推進に関わりました。大蔵省(当時)に予算折衝した記憶があります。

イランへ三井物産が国家プロジェクトとして構築した化学プラントIJPCメンバーの脱出計画(イラン・イラク戦争)に関わるなど、エキサイティングな経験をしました。

二度の石油ショックをくぐり抜け、日本が日出る国を言われるようになる前夜、このような仕事に従事できたことは、度胸が据わった以上に、その後に役立つことでした。

何でもありが通産省の雰囲気でした。ここで学んだことが後年自信や誇りにつながっていったと思います。良い経験をさせてもらったと感謝しています。