気ままなおもいつき 2019年11月25日(月)

(外へ出ました)

通商産業省(現在の経済産業省)に出向し、中東担当になったのは1979年、電電公社に入社して4年と少し、久喜電報電話局電話運用係長からの異動、26才でした。

中東が燃えていた時代だったのと、通産省が一番元気だったと思っている時代だったので、それまで経験していなかったいろいろな経験を通じ、外に出た感じがしました。

大臣や局長などの通産省幹部、国会議員、新聞記者、大使館員、大企業の幹部その他と触れ合う機会が増えました。思ったより怖くなく、若手の話を聞いてくれました。

通産省の職員だから聞いてくれているということには、気づきましたが、自分の価値が上がったのではと錯覚しても仕方ないくらいでした。怖いものなしでした。

気をつけたのは、約束を守ること、嘘をついたり、ごまかしたりしないことでした。100点取れたとは思えませんが、自分の言葉に責任を持つことの意味を痛感しました。

電電公社にいただけでは、中の論理だけになり、価値観もそこで壁にぶつかっていたかも知れません。中だけでも十分、自己実現できる規模の組織だったのは確かです。

外へ出たことで得られたものは数知れません。中央官庁はすごいなと身を持って感じることができたことが一番です。日本を背負っているという自負心を教わりました。

気ままなおもいつき 2019年11月18日(月)

(いつの間にか)

独自の特殊言語や機能を使った大型コンピューターと違って、誰でもが使えるインターフェースを持つパソコンや、タブレットの世界は英語から始まることになります。

英語の問題、欧米主体のルール作り、高度成長期の成功体験が強烈な日本の慢心、冷戦終了後の、G7国以外の急速な経済成長など、いろいろなことがありました。

通産省の時は、欧米に学ぶという姿勢はありました。15年後には、ステレオタイプで、欧米は斜陽、欧米人は怠惰だときめつけて見ているように思ったことがあります。

第二次世界大戦のトラウマ、終戦後の占領時代、高度成長期の体験が、情勢分析の際の冷静さが減少し、ジャパンアズナンバーワンとその通り信じてしまいました。

単なるしろうとの感覚ですが、ジャパンアズナンバーワンの気持ち良さが続くと、いつの間にかそれが当たり前のこと、永遠の定理のように思えてきました。

ニューヨークタイムズ紙での日本関係記事の頻度や内容を見たり、店頭を眺めると、安くて、丈夫な製品を作っている国と思われているだけということを痛感しました。

2003年、日本に帰国するころには、2001年の9.11後の環境が変化し、アップルの復活、グーグル、マイクロソフト覇権がいつの間にか始まっていました。

気ままなおもいつき 2019年11月11日(月)

(15年後の現実から考える)

通産省での仕事から15年後、ニューヨーク勤務を経験することになりました。ジャパンアズナンバーワンの余韻がある、日本人駐在員が元気だった時代の最後でした。

ロックフェラーセンターや、映画会社が日本企業に買われ、日本の土地の値段と、アメリカの土地の値段が同じと言われた時期が日本の最盛期だったと思っています。

マンハッタンのソニービルや、タイムズスクエアの日本企業の看板など、日本の露出はすごかったですが、慣れるに連れ、違和感を持つようになりました。

家電量販店に並んでいるソニーのテレビの値段は、アメリカ製、韓国製と変わりませんし、高級車ブランドのレクサス以前のトヨタや日産は、安くて丈夫が売り物でした。

グローバル企業に肩を並べることのハードルの高さを痛感しました。他の企業もそれぞれの市場や分野で苦労していました。ソニーやトヨタの現実と同じでした。

後発だった、韓国や中国製品の品質向上、アメリカ式の大量生産をさらに改善した日本式生産の普及などにより、日本の強みが徐々に失われることになりました。

改良によって、商品価値が上がって、市場をリードできた工業製品と違い、ソフトウエアや、OSなど、ITにつながる分野は創造力と英語が必要な分野でした。

気ままなおもいつき 2019年11月4日(月)

(日本が主役になりそうだった時代)

資源のない分、アイディアと技術で勝負しようという気概があふれていた時代だったと思います。オートフォーカスのカメラや、ウォークマンもこのころ新発売でした。

カリフォルニアのマスキー法に端を発した、自動車の排ガス規制技術も日本が先頭でクリアし、ドイツやアメリカがもたもたしている間、前進を続けることになりました。

太陽熱を利用して、海水を淡水化する技術も、日本以外ではまだまだだったと思います。UAEのアブダビに技術協力で建設し、夢を実現することになりました。

サウジアラビアから、商業大臣が来日した時、ソニーの研究所でハイビジョンの実験を内緒で見せてもらいました。信じられない高精細に目をみはりました。

国内市場は、団塊の世代が結婚し、団塊ジュニアが生まれるなど、増えていく人口や都会への労働力集中で、ますます活性化し、作れば売れるという時代でした。

ブラックのような環境での仕事でしたが、楽しく、エキサイティングな記憶がたくさん残っています。このあとのことですが、バブルにつながっていく序章だったと思います。

パックスブリタニカ、パックスアメリカーナの次はパックスジャポニカだと言われたこともあったと記憶しています。本当かなと思いましたが、結局夢で終ったようです。