自分(の仕事)史 2020年11月30日(月)

(リクルート事件)⇒銀座五丁目交差点

幹部の不祥事がスクープされ、右往左往した事件が起こり、報道担当として、おおぜいのマスコミを前にして、記者会見をするというあらたな経験をすることになりました。

このようなことが起こると、大手マスコミだけでなく、スポーツ新聞、ゴシップ週刊誌やブラックジャーナリズムのようなひごろお付き合いのないみなさんとも対応しました。

こちらは、恐縮をしなければならない場なので、どんなことがあっても切れてはいけないと思って対応しました。貯まるばかりのストレスが大変なものだった記憶があります。

なんとか、切り抜けてしばらくして、もっと大きな事件が発生しました。根っ子の部分ではつながっている感じもありましたが、世間を騒がせたリクルート事件が起こります。

最初は、川崎市助役(現副市長)がらみの話で、NTTグループには関係ないかなと思っていましたが、政財界に影響が広がり、NTTグループも無傷ではありませんでした。

就職情報誌で、就活時には誰もがお世話になるリクルートがどんどん業容拡大し、リクルートコスモスという不動産会社を作り、その株式上場にまつわる事件でした。

未公開株という普通には耳慣れない言葉を初めて聞いたのもこの時でした。関係ありませんが、リクルートコスモスの新築マンションに応募しましたが、結果は落選でした。

自分(の仕事)史 2020年11月23日(月)

(記者クラブ)⇒車内ニュース

当時の広報部報道担当の隣は、葵クラブという名前の記者クラブでした。逓信省が郵政省と電気通信省に分割した際の庁舎の住所が赤坂葵町だったからと聞いています。

電気通信省は3年後に国鉄、専売公社と同じ公共企業体、日本電信電話公社(電電公社)になりました。1960年ころに、千代田区内幸町の新築ビルに移転しました。

そんな縁で、官庁と同じように、社内に記者クラブがあり、記者が常駐していました。場所を提供しているのが、是か非か、議論もありますが、そのころは普通のことでした。

記者クラブの正会員は中央紙・一部の専門誌や地方紙とNHKでした。民放各局や週刊誌の問題は、広報部にいた1980年代後半でも、すっきりしていませんでした。

最近は忖度報道とか、都合の良いニュースだけ、広告などをエサに報道操作と言われたりしますが、当時は、根本のところでは記者魂が前面に出た、厳しい取材でした。

確かに、記者のみなさんとは親しくなり、野球大会でコテンパチンにやられたことや、宴会もしましたが、割り勘でのイベントも増え、取材態度はフェアだったと思います。

いろいろな議論があり、民営化後も記者クラブは残りましたが、分割後は違った形になり、電気通信関連業界すべてを対象にしたクラブに衣替えしたと聞いています。

自分(の仕事)史 2020年11月16日(月)

(大韓航空事件)⇒空の上

1980年代の終わり、大韓航空はソ連上空で撃墜されたり、乗っ取られたりという事件が続きました。関係ない話だと思っていましたが、そうではありませんでした。

広報部報道担当をしていた時、最初の電話を取りました。蜂谷真由美というのはNTT社員かという問い合わせがマスコミからあった途端、すべての電話が鳴り始めました。

調査するのに時間がかかりましたが、その名前の社員はいないということがわかりました。これで関係ないと思ってホッとしたのですが、ここで終わりではありませんでした。

蜂谷真由美と名乗った、金賢姫のパスポートナンバーを所有している人の職業がNTTだということがわかりました。それからが大変で、また、人探しが始まりました。

真相は、新婚旅行に行った際、どこかでパスポートナンバーが、今で言う、スキミングをされたということで、心当たりもなく、渡航先も韓国や北朝鮮ではありませんでした。

大騒ぎは数日続き、部下を該当の社員が勤務する地方に派遣し、現地で記者会見をしてもらいました。判断が遅れた東京の責任者として、今でも深く反省をしています。

通常の状態ではない中でのマスコミ対応で、危機管理の厳しさを実感する事件でした。この事件、いろいろな報道がありましたが、結局、真相はすっきりしませんでした。

自分(の仕事)史 2020年11月9日(月)

(社長の手紙)⇒郵便ポスト

試行錯誤のひとつで、社長から全員に手紙を出すことにしました。すべて自筆は無理ですが、広報部で草稿を作り、社長にしっかり推敲してもらって出すことにしました。

社長の手紙に対する返事は大歓迎としたため、自分の言葉で書いた内容の多数の返事が舞い込むことになりました。まずは、社長に読んでもらうことにしました。

数が多いので、特筆すべき内容の手紙が全文を読んでもらうようにしたと記憶していますが、あと返事は、エッセンスを慎重にまとめた表にして読んでもらったと思います。

社長にも返事を出してもらおうと思い、返事のエッセンスを要素別に分類し、それぞれの要素ごとに返事の草稿を作り、それをつなげていくという方式で書くことにしました。

パソコンが普及していなかった、1988年ころのことです。みんなで、たくさんの短冊を作り、上手に接続詞を使うことで、自然に読める文章にできたのではと思っています。

大作業を行った効果があったのか、単なる担当者の自己満足ではなかったのではと思いながらのプロジェクトでしたが、何かやろうというパッションはあったと思います。

このような活動を行って、社内を盛り上げ、元気を出そうと努力をしましたが、残念ながら、1988年夏、リクルート事件が起こり、社内は大騒動になってしまいました。

自分(の仕事)史 2020年11月2日(月)

(電話番号)⇒相模屋の看板

マンハッタンの市外局番は212。市内局番は3ケタです。電話の数が増えたので、東京や大阪は市内局番4ケタにしましたが、マンハッタンは市外局番が増えました。

日本と違って、固定電話も携帯電話も番号体系が共通なので、マンハッタンらしいあこがれの212だけでなく、らしくない646や917という市外局番も使われています。

マンハッタンに住んでいる時、自宅は212でしたが、携帯は917でした。東京は、固定電話と携帯電話は別の番号体系で、市内局番が3ケタから4ケタに増えました。

4ケタになって、最初は、3ケタの番号の最初に3をつけた番号になりましたが、競争事業者や、ひかり電話、ケーブルTV電話など、どんどんと番号が増えていきました。

独占だった電電公社時代、電話番号は自社で決まられましたが、民営化以降、競争が開始されると、総務省(郵政省)の権限となり、自由に決められなくなりました。

かつて、語呂合わせなど、クルマのナンバー同様、人気がある電話番号にはプレミアが付き、電話加入権業者などの商売になっていました。0123の引越し会社などです。

固定電話のピークを越えて20年。音声通話そのものが減り、LINEなどのおまけで受話器マークをクリックするだけになりました。電話番号を覚えることがなくなりました。