自分(の仕事)史 2020年12月28日(月)

(瀬戸内海)⇒広島宇品港

瀬戸大橋が出来た1988年に、四国松山勤務になりました。その年は、いつになく、飛行機ではなく、列車で瀬戸大橋を渡ってやって来る本社からの出張者が多かったようです。

松山へは、飛行機で赴任したので、瀬戸大橋を渡ったのは、しばらく経ってからでした。最初の瀬戸大橋は、丸亀港から乗った小さな遊覧船。橋げたから見る瀬戸大橋は見事でした。

そのあと、何回か瀬戸大橋を走る電車に乗ることになりました。マリンライナーのドアに立って、下を見た時の、橋げたの間から見える瀬戸内海はスリルもあり、なかなかダイナミックです。

羽田から松山に飛ぶ飛行機は、広島県竹原付近で大きく左に旋回し、瀬戸内海の上を飛行します。窓から見える小さな島々の中には、人が住んでいる島も結構あります。

松山空港は、海からの着陸が普通なので、着陸するまでの間、瀬戸内海の上を飛ぶことになります。50年以上前、YS11が松山沖で墜落した場所も瀬戸内海でした。

広島と松山を結ぶ石崎汽船の高速船から見る瀬戸内海、しまなみ海道から見る瀬戸内海、それぞれに、別の顔を見せてくれます。明石海峡大橋の下も瀬戸内海です。

松山勤務になるまで、縁がなかった瀬戸内海ですが、のんびりとした感じが好きになりました。最初は抵抗のあった松山勤務でしたが、いろいろな意味で良い時間でした。

自分(の仕事)史 2020年12月21日(月)

松山へ転勤

愛媛県松山に転勤することになる少し前に、大きな事件が発生しました。四国には、修学旅行で栗林公園に行ったことがあるだけ。遠くから事件を眺めることになりました。

松山に住んだら、道後温泉に住んで、毎朝、港で魚を買って暮らすと良いと言われ、夏目漱石の「ぼっちゃん」の文庫本を餞別にもらいました。面白く、再読しました。

実は、住んだ場所の住所は、松山市道後湯之町、有名な道後温泉本館から歩いて数分、商店街に入り口があり、伊予鉄道後温泉駅の真ん前の便利なアパートでした。

道後温泉には住みましたが、人口が40万人以上住む松山市。港までは結構距離があります。それでも、快適な生活を送ることが出来ました。まだ、30代前半でした。

いくつかの不祥事や、いろいろな事件がひと段落したあとの異動でした。転勤前に序章が始まっていたリクルート事件がNTTに飛び火するとは思ってもみませんでした。

リクルート事件から、すでに30年以上経過しています。関係者の多くが亡くなり、次第に風化してしまいました。いろいろな見方がありますが、時代を象徴することでした。

広報部はいろいろな意味で渦中にあったので、松山での生活や、初めての地方幹部としての仕事をしながら、毎日、気をもんでいましたが、残念な結果になりました。

自分(の仕事)史 2020年12月14日(月)

組織と忠誠⇒帷子橋跡

バブルから大きな事件が発生するころは、30代中盤。地方支社の課長から、本社の広報部報道担当課長でした。入社して10年余、組織の中堅幹部に差し掛かりました。

それまではあたえられた仕事をこなすことがミッションでした。自分で創意工夫しなければならないことがあっても、決められたレールの上を走っているという感じでした。

民営化を経たこのころ、会社を守るという場面が出てきました。報道担当としては、すべてをオープンにするわけにはいきません。犯罪や違法行為でなくても同じことでした。

組織と言っても、人によって成り立っているので、上司の意向を無視するわけにはいきません。理不尽なオーダーだなと思ったとしても、従ったというケースもありました。

さらに上司に説明するだけの目的だったら、多少眼をつむっても大したことはありませんが、会社のミッションやコンプライアンスに抵触することになるとそうはいきません。

このことは、ポジションが上がるに連れ、肌で感じるようになりました。下手をすると、間違っていても従ってしまうということや、上司に殉じるということになってしまいます。

忠臣蔵のような組織にならないようにしていきたいと思って過ごしましたが、部下に忖度してもらったことがないとは言えません。組織と忠誠に気づいたのはこのころでした。

自分(の仕事)史 2020年12月7日(月)

(NTT株)⇒証券会社

リクルート事件は、就職情報会社リクルートの不動産子会社リクルートコスモス(当時)が上場する前の未公開株を関係者に配ったことから、発生した贈収賄事件でした。

当時の株式市場は、右肩上がりを続け、日経平均が4万円を突破するのではと言われていました。NTT株もフィーバーと言えるような状況になり、世の中が大騒ぎでした。

NTT株は入札方式で政府売り出し価格が決まり、119万7千円で売り出されましたが、人気沸騰で、上場初日は値が付かず、2か月後最高値の318万円になりました。

そのあとは、ブラックマンデーにより、バブル株価が急落し、NTT株売り出し熱も冷めていきました。株式投資に興味のない人たちを巻き込んだNTT株フィーバーでした。

NTT内部に作った持株会の積み立ても、株価高騰により、いつまで経っても、1株になりませんでした。自分の持株が1株になったのは忘れるくらい経ったころでした。

NTTに続いて、JTや2年後に民営化したJRグループ(東日本、西日本、東海、九州)も上場していきましたが、最初のNTT株のようなフィーバーにはなりませんでした。

このころから、しばらくの間がバブル絶頂期でした。世の中が浮かれているとは感じましたが、自分の給料が上がるわけでもなく、支出だけが増えることになっていきました。