自分(の仕事)史 2021年1月25日(月)

(縁の下の力持ち)⇒日比谷通り

2回目の日比谷ビル勤務の時、民営化前の無限に続くような仕事に負けそうになり、ベランダから、飛び降りればラクになれるなと思った日比谷ビルに戻って来ました。

民営化を乗り越え、NTTと呼ばれるようになり、就活も株価も人気沸騰した時期がバブルとともに、過ぎ去ろうとしていました。大事件の後遺症が残っている時期でした。

仕事は、広範囲で、取締役会、株主総会の事務局、局舎や幹部のクルマの管理、その他、どこにも属さない事項すべてです。いろいろなことがあった6年間でした。

ある時、総務部の忙しい会社はろくなものじゃないと言われたことがありました。確かに、不祥事やトラブルが起こると忙しくなりました。思い出したくない記憶もあります。

楽しかったことは、最初の数年にくらべ、出席株主が減ったとは言え、日本最大規模だった株主総会が終わってホッとした一瞬でした。達成感と脱力感で満足しました。

NTTの人事は、2年か3年で異動がありました。途中、内々示をもらったこともありましたが、異動が実現したのは6年後、3人の総務部長に仕えることになりました。

四国、松山での2年と少しを挟んで、広報部と総務部で都合8年間、会社組織の縁の下の仕事をしました。力持ちとして機能したかどうかは今でも、自信がありません。

自分(の仕事)史 2021年1月18日(月)

(日比谷ビル)⇒日比谷公園

1990年10月、2年2か月ぶりに、千代田区内幸町1-1-6にある、NTT日比谷ビルに通勤することになりました。日比谷ビル勤務は、これで4回目になります。

最初は1976年、見習いとして、総裁室文書課組織係に1年6か月。よくわからないまま、ビル内を走り回っていました。この時期に覚えたことは忘れていません。

次は、1982年2月からの1年8カ月、計画局総括課収支調査係長でした。終始調査していると揶揄しましたが、民営化後の事業計画作成に関与できました。

3回目は、1986年2月からの2年半、広報部報道担当課長でした。民営化から1年余、いろいろな事件もあり、いろいろな意味でエキサイティングでした。

今度の総務部担当課長勤務(途中から担当部長、仕事の中身は変わりません)が、6年続くとは思いませんでした。日比谷ビルからの移転にも関わりました。

いろいろな思い出のある日比谷ビルでの勤務は慣れてはいましたが、仕事の内容は変わり、とんでもないことにも直面するなど、戸惑うこともありました。

それでも、日比谷公園にも、銀座にも近い日比谷ビルは、ランチにも、気分転換にも良く、ふるさとに戻ってきたような感じになりました。長い6年間が始まりました。

自分(の仕事)史 2021年1月11日(月)

(松山ぐらし)⇒JR四国

松山に住んで仕事をしたのは、1988年8月から1990年9月末までの2年2か月でした。そのころはバブルの最盛期、瀬戸大橋も出来て、松山の街も賑わっていました。

コロナ禍の経営難直撃のJR四国も利用客が増え、国鉄時代は規制されていた特急列車の増結も、松山駅ホームからはみだすほどの、9両編成までになったほどでした。

四国でのポジションは、地方支社の部長だったので、県庁や市役所、地元地銀や有力企業の幹部、衆議院議員など、それまでにはない層と知り合えることができました。

プライベートでお付き合いしたことで、意外な面や人間くささを感じましたが、人生の先輩ばかりなので、いろいろな意味で勉強になった貴重な時期だったと感謝しています。

20代中盤の通産省出向時代も、局長や大臣などと触れ合うことや、大企業の幹部や、記者と話をすることなどもあり、背伸びしながら、自己研鑽できたと思っています。

民営化して3年ほど経つころ、責任も重くなり、四国のような小規模の支社でしたが、いろいろな課題も多く、仕事そのもの、従業員のマネジメントなど、悩みも増えました。

官庁系では当たり前ですが、四国支社営業推進部長から、本社総務部担当課長に転勤した時、地元の人に左遷されたのかと言われました。楽しい松山ぐらしでした。

自分(の仕事)史 2021年1月4日(月)

(四国での仕事)⇒POSレジ

四国での2年半、テレホンカードが絶頂期でした。グリーンの公衆電話が増え、いろいろなデザインのテレホンカードが発行されたほか、自分デザインも可能になりました。

ホールインワンや還暦などを記念し、額面にデザイン料などを加算した金額での自分デザインカードも普及しました。大ヒット商品となり、四国でも熱心に販売しました。

その結果、金券の取り扱いだったという課題もあって、いろいろなトラブルも発生し、社内処分の対象になったこともあります。少しばかり苦さも残る思い出になりました。

タルトで有名な地元のお菓子チェーン一六に、ISDN回線とPOSレジを組み合わせたソリューションを販売したことがあります。時代を先取りした営業だと自慢できました。

パソコン通信も始まり、FAXも最盛期でした。音声中心の通信から、通信回線でデータや画像をやりとりする時代が始まりました。結構、楽しい時間だったと思います。

営業推進部長だったので、四国4県を何度も回りました。高速道路は少しだけしか開通していなかった時代、下道を走り、JR四国の列車に乗って、景色を体感できました。

民営化して数年、瀬戸大橋も開通したころの元気な四国で仕事が出来たことは良い経験でした。社外での付き合いも増え、少し大人になったと思うような毎日を過ごしました。