自分(の仕事)史 2020年4月20日(月)

(内幸町1-1-6)

次の総裁(最後の電電公社総裁)は、内部昇格ではなく、部外からになりました。中曽根首相、土光経団連会長に近い、石川島播磨重工(IHI)社長だった、真藤恒氏が就任しました。

本社研修のころ、研修生(見習い)は8時半の始業時より前に出勤して、机を拭き、お茶くみの準備をしていましたが、係長や課長補佐の出勤はだいぶあとでした。

おかげで、お茶の入れ方には慣れました。熱さぬるさ、濃い薄い、コーヒーと紅茶どちらが良いか、個々人の好みを通りに、自前のカップに注いで、日に2回出しました。

重役出勤とか、役所時間と言われるような出勤でしたが、真藤総裁になってから、局長クラスの幹部が、早い時間に呼ばれることもあり、戻ったら、様変わりでした。

当時の通産省は、事実上は9時半から10時くらいが出勤時間で、そのかわり夜はエンドレス、休日出勤はし放題で夜型に慣れた身には、深夜勤務はそのままの8時前出勤はつらいことでした。

困ったのは、朝食をとってきても、2時間ほど、出勤時間が前倒しになったので、10時半には空腹を覚え、お腹が鳴って、恥ずかしい思いをしたことがありました。

仕事自体も、ガラッと変わり、事業独占の親方日の丸で、変化を好まない体質から、行政改革の流れの中、民営化とか、競争導入という耳慣れない言葉があちこちで聞けるようになりました。

千代田区内幸町1-1-6にある電電公社本社に戻った1982年冬。行政改革シフトに近い新総裁の登場で、新しい時代の幕開けが近づくことになったことに気づいていませんでした。