今週の「思いつくまま・・」2018年6月11日(月)

リクルート事件の前触れみたいな事件や、大韓航空機爆破事件の犯人とされた金賢姫にNTT社員が関わっていたのではという事件など、広報部時代には、新聞・テレビが興味を持つ社会部ネタがありました。それでも、社長が逮捕された、リクルート事件に比べれば、規模は小さく、記者会見もわれわれレベルでどうにかなりました。 “今週の「思いつくまま・・」2018年6月11日(月)” の続きを読む

今日も思いつくまま・・2018年6月4日(月)

1985(昭和60)年4月、電電公社と専売公社が民営化され、NTT、JTと呼ばれるようになりました。国鉄は2年後の1987(昭和62)年4月に分割民営化され、JRグループになりました。NTTになった日は、名古屋でした。電気通信局というエリア管理機関の営業窓口担当の課長だったので、約款の窓口への整備など、事前準備に忙殺されました。 “今日も思いつくまま・・2018年6月4日(月)” の続きを読む

今日も思いつくまま・・2018年5月28日(月)

1982(昭和57)年2月、電電公社に戻りました。ポストは経営計画作り、特に収支見通しを担当する、計画局総括課収支調査係長でした。通産省では課長補佐の仕事をしていましたが、今度は係長、部下は4名、着任した時には疲労困憊、年始明けからほとんど休んでいなかったということです。この3年後、電電公社は民営化することになります。 “今日も思いつくまま・・2018年5月28日(月)” の続きを読む

今日も思いつくまま・・2018年5月21日(月)

前回の続きの通産省。最初にあったのが、イランのアメリカ大使館員人質事件。結構長く続きました。その前に、親米派のパーレビ国王が追放され、イスラム原理主義者と言われた、ホメイニ師が実権を握ることになりました。第2次石油ショックの始まりです。そんな中、起こったこの事件、日本も経済制裁に巻き込まれ、右往左往することになりました。 “今日も思いつくまま・・2018年5月21日(月)” の続きを読む

今日も思いつくまま・・2018年5月14日(月)

少し、時間を戻します。1979(昭和54)年9月から、1982(昭和57)年2月までの2年5か月、通産省(現在の経済産業省)に出向しました。電電公社の社員のままでの出向で転籍ではありませんでしたが、当時の通商政策局西欧アフリカ中東課中東室というところで、係長と課長補佐の仕事をさせてもらいました。その間、歴史に残る事件がいくつか発生しました。 “今日も思いつくまま・・2018年5月14日(月)” の続きを読む

今日も思いつくまま・・2018年5月7日(月)

そんな中、売り出されたのがNTT株。抽選方式だったことや、バブルの最盛期だったこともあり、フィーバーと言われるほどで、その後に政党幹部になった経済評論家が、売り出し価格が5万円の額面が119万7千円になったことを評し、500万円にもなるので、買わないという選択はないと煽ったのも、当たり前という感じでした。 “今日も思いつくまま・・2018年5月7日(月)” の続きを読む

今日も思いつくまま・・2018年4月30日(月)

広報部の担当課長のころは、お酒を飲まない私でも、ほぼ毎日宴会でした。電電公社時代の広報担当は、電波行政を担当する郵政省(今は総務省)にいる、波取りと言われるテレビ利権担当の政治部記者や、社会部記者が中心だったのが、1985(昭和60)年の民営化以降、通信ビジネスに対する興味が増し、郵政省ではなく、NTTに常駐する経済部の記者が増えました。 “今日も思いつくまま・・2018年4月30日(月)” の続きを読む

今日も思いつくまま・・2018年4月23日(月)

少し急ぎます。電電公社の始業は8時半でした。会社の始業は普通9時だと思っていたので、大ショック。入社1年4か月後の本社研修の際は、お茶くみ、机の掃除もあって、8時前後に出勤。いくらでも寝坊できた当時、つらかった記憶があります。学生時代は、面倒なら、行かないという選択可能な日が多かったので、余計です。 “今日も思いつくまま・・2018年4月23日(月)” の続きを読む

今日も思いつくまま・・2018年4月16日(月)

1976(昭和51)年8月下旬から、1978(昭和53)年2月いっぱいだった本社研修は、電電公社本社、千代田区内幸町1-1-6、今のNTTコミュニケーションズ本社で行われました。そろそろ、建て替えということで、NTTコミュニケーションズも、近々大手町に建設中のビルに移転するということです。当時は築15年くらいだったと思います。 “今日も思いつくまま・・2018年4月16日(月)” の続きを読む

今日も思いつくまま・・2018年4月9日(月)

1年半の現場研修と、後期の集合研修3か月が終わったあとは、本社での研修。30万人以上の従業員がいる、当時の電電公社の中で、事務系本社採用は40人。入社した1975(昭和50)年は、第一次石油ショックのあと、売り手市場だった大卒採用が、石油ショックによる不況のため、内定取り消しになるなど、やや暗雲が出て来た時期でした。 “今日も思いつくまま・・2018年4月9日(月)” の続きを読む