今日も思いつくまま・・2018年6月4日(月)

1985(昭和60)年4月、電電公社と専売公社が民営化され、NTT、JTと呼ばれるようになりました。国鉄は2年後の1987(昭和62)年4月に分割民営化され、JRグループになりました。NTTになった日は、名古屋でした。電気通信局というエリア管理機関の営業窓口担当の課長だったので、約款の窓口への整備など、事前準備に忙殺されました。

電気通信局も総支社と名前を変えました。昨日と同じ仕事でしたが、気分を変えなくてはという気持ちは結構強かったと思います。民営化前、全員でお客様訪問をしようという話になり、寒い日曜日の午後、愛知県の住宅地を回りました。家の中でテレビの音や、歓談している声が聞こえているのに居留守。マッチ売りの少女の気分でした。

電電公社民営化の説明ですとか、電話はそのまま使えますなどという説明でしたが、初めての試み、怪しまれても仕方ありません。1ミリもドアは開きませんでした。同じ思いは、アメリカでの通信サービススタート時、NTTは誰でも知っているという思い込みが間違っていることと先駆者KDDの歴史を感じました。ともに、良い経験だったと、今は思っています。

そのころ、カードで保存していた、お客様(当時は加入者と呼んでいた固定電話のお客様です。)情報をコンピューター化するというプロジェクトが進んでいました。顧客サービスシステムと名付け、それまでは料金計算だけが電算化されていたのが、窓口業務に端末機を導入するというものです。これが大変でした。

紙のカードは戦前というか、明治時代の達筆な文字など、古文書もあり、解読が困難を極め、ワープロ普及時復活する難しい漢字が判読できず、簡単な漢字にしてしまったり、入力ミスなど、大変でした。その後のペーパーレスでの受付などでも、支障になってしまった時、四国で営業担当部長でした。因果はめぐります。

1986(昭和61)年2月、2年4か月あまりの名古屋生活を切り上げ、本社広報部報道担当課長になりました。新聞記者対応の責任者でしたが、お酒に弱い、麻雀はやらない、ゴルフもしないということで、不安いっぱいでした。お酒をあまり飲まない宴会は頻繁に行いましたが、あとはパスのまま、仕事はしたと思いますが、いろいろなことのあった2年半でした。

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