今日も思いつくまま・・2018年5月28日(月)

1982(昭和57)年2月、電電公社に戻りました。ポストは経営計画作り、特に収支見通しを担当する、計画局総括課収支調査係長でした。通産省では課長補佐の仕事をしていましたが、今度は係長、部下は4名、着任した時には疲労困憊、年始明けからほとんど休んでいなかったということです。この3年後、電電公社は民営化することになります。

今でも、変わっていない、貿易不均衡が原因の日米政府調達交渉の渦中に、政府機関の電電公社が巻き込まれ、今まで仕様書でがっちりと守られていた、電電ファミリーと言われていた日本企業の牙城にアメリカ企業を入れろという要求でした。そんな中、当時の総裁が、アメリカ製品は品質に問題があり、買えるのは雑巾バケツだけと言ったことで大問題になりました。

即座に更迭されたあとの総裁は、民間企業社長経験者、生ぬるい半官半民の組織はひとたまりもなく、大きな流れの中へ放り込まれ、まさかと思った民営化に向けての検討が始まりました。そんな中、計画局総括課長という人は、アメリカの規制緩和や、英国BTの民営化などに関心も高く、民営化を進めという立場でしたが、最初は少数派でした。

そのための資料作りは、組織のミッションだったので、いろいろなシュミレーションや試算を繰り返し、目的にあったストーリーを作り続けました。まだ、パソコン普及前のこの時代、計算尺を自動化したような電動計算機や関数電卓を駆使し、富士通やNECのパソコンが登場して、演算が劇的に早くなるまで、エンドレスのような作業でした。

パソコンを導入して、一昼夜かかった演算が15分くらいでできるようになった当初、上司には、そんなに早くなったという報告をせず、とにかく、待たずに帰ってもらい、飲みに行った記憶があります。もっとも、途中で雨が降ったとかで、傘を取りに戻った上司と、飲みに行くわれわれが鉢合わせをしたこともありました。笑えない喜劇です。

当時のパソコンは、市販ソフトがあるわけではないので、自分たちでプログラムを作りました。今思えば、そんなに難しいプログラムではありませんでしたが、フローチャートをにらめっこして、無駄なプロセスを省き、民営化すべきという数値が出た時のうれしさは格別でした。そんな、タメにする計算もありましたが、民営化の効果は想像以上でした。

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