今日も思いつくまま・・2018年5月21日(月)

前回の続きの通産省。最初にあったのが、イランのアメリカ大使館員人質事件。結構長く続きました。その前に、親米派のパーレビ国王が追放され、イスラム原理主義者と言われた、ホメイニ師が実権を握ることになりました。第2次石油ショックの始まりです。そんな中、起こったこの事件、日本も経済制裁に巻き込まれ、右往左往することになりました。

電電公社からの出向ですから、中東のこと、石油のこと、そもそも通産省のことも何も知らずに、騒ぎに巻き込まれました。3年先輩が、一時病休ということになり、実質上、課長クラスの中東室長と二人で切り回すことになり、おかげ様で、いろいろなことを学ぶことができました。生き抜く知恵って、出てくるものだと自分ながら、感心しました。

中東のキーワードは、石油の安定供給、中東和平、日本のプレゼンスなど、今と全く同じことです。石油の需給如何で、強弱があり、足りない時は、土下座的な政策、余ってくると、忘れられることになります。継続的に貢献している専門家がいなければ、信用されません。そんな中、一番厳しい時期に直面することになりました。

イランでもうひとつの大きな問題は、通産省が音頭を取って始めた石油化学プロジェクト、IJPCです。三井物産が主体で進めたものですが、革命、政変、戦争に巻き込まれることになりました。イラン・イラク戦争勃発時、日本人をイランから、どうやって帰国させるか、三井物産から、通産省にルートを決めるように求められたことがあります。

正直困りましたが、外務省の実務スタッフが匿名を条件にルートを教えてくれました。JAFでコピーしたイラン周辺の道路地図上に、教えてもらったルートをたどり、隣国のトルコに無事入国できたという知らせを受けた時には、涙が出ました。もっとも、三井物産側の記録にはないことですが、綱渡りのような仕事が出来たという記憶がありました。

そんなこんなの2年半ですが、石油需給が緩むと、仕事も少なくなり、ヨーロッパとの経済関係に関するシンポジウムにかかわり、政治家のスピーチ原稿を作ったり、在日EC委員会と打ち合わせをしたりといった仕事をしました。これはこれで、大変面白く、ためになる仕事でした。2年半、エキサイティングな経験をして、1982(昭和57)年2月、電電公社に戻ります。

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