今日も思いつくまま・・2018年5月14日(月)

少し、時間を戻します。1979(昭和54)年9月から、1982(昭和57)年2月までの2年5か月、通産省(現在の経済産業省)に出向しました。電電公社の社員のままでの出向で転籍ではありませんでしたが、当時の通商政策局西欧アフリカ中東課中東室というところで、係長と課長補佐の仕事をさせてもらいました。その間、歴史に残る事件がいくつか発生しました。

通産大臣は、最初が江崎真澄、続いて、田中六助、佐々木義武と続き、最後が安倍晋太郎でした。外交は外務省の仕事ですが、日本の産業基盤を揺るがす石油危機などから、通産省でも中東専門担当を作ったということで、電電公社とは何の関係もありません。二元外交と非難され、外務省ともめるのは日常茶飯事でした。

行った年の暮れに発生した、在テヘランアメリカ大使館人質事件と、その後に続き、長期間のイラン経済制裁、解決したかたと思った後の大事件が、イラン・イラク戦争が起こりました。その間も、アフガン戦争が始まったり、石油パイプラインが爆破されたり、三井物産が政府プロジェクトとしてイランで作った石油化学プラント、IJPCの問題など、いろいろありました。

当時の中央官庁は、実質的な始業時間が遅く、全員がそろうのは10時過ぎでした。それまで、朝早起きして、文京区から久喜に通っていたのが、9時過ぎに出勤ということになりました。社宅では、交代制の職場に転勤したと思われていたようです。帰りはほぼ午前様、定期を買っても使えない状態が続きました。

事件が発生し、忙しくなると、朝7時に出勤したり、中東の週末が木金だったこともあり、土日も出勤が日常になりました。24時間7日勤務に近い、滅私奉公、ブラックそのものでした。続けられたのは、若かったことと、国を守るという気概があったからだと思っています。埼玉県久喜の電話交換手担当係長から、世界の動きの中に放り出されたみたいでした。

直接、ニューヨークタイムズや、ワシントンポストから電話がかかり、取材を受けたこともあります。そこで覚えた言葉が、ゆっくり話して(Please speak slowly) と、ちょっと待って(Wait a moment)というフレーズでした。荒波の中、誰の助けもなく、対応した経験や、省内での仕事の回し方など覚えることで勉強にはなりました。

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