今日も思いつくまま・・2018年4月30日(月)

広報部の担当課長のころは、お酒を飲まない私でも、ほぼ毎日宴会でした。電電公社時代の広報担当は、電波行政を担当する郵政省(今は総務省)にいる、波取りと言われるテレビ利権担当の政治部記者や、社会部記者が中心だったのが、1985(昭和60)年の民営化以降、通信ビジネスに対する興味が増し、郵政省ではなく、NTTに常駐する経済部の記者が増えました。

昔の記者は、郵政省や会社からの接待を受けるのが当たり前だったようですが、経済部のみなさんは、それほどではなく、割り勘で行こうと気楽に誘ってくれました。それはそれでありがたいのですが、当時は二次会、三次会もあり、すべて割り勘で払うのは大変でした。相手はその日だけかも知れませんが、こちらはそうはいきません。

その間に、接待も入りました。ゴルフはやらないと言っていたので、週末の宴会はなかったので幸いでしたが、やれば、週7日宴会になったと思います。広報部の前後も、接待を受けることは少なかったので、上座に座るのは今でも、落ち着きません。上座ばかりの毎日になると、どうしてもその気になります。本当に良かったと思います。

このころは、最初の結婚と、次の結婚の間だったので、余計に回数が増えたのかもしれませんが、ニューヨークに赴任して、日本風宴会の減る1996年までの約10年、ウィークデーはほぼ毎日、週5回、月20回、年240回、一次会をしていました。その結果、宴会の作法や人との付き合い方を覚え、数人の知己ができたのは良かったと思います。

電電公社時代後半の、不正経理問題から、生え抜き総裁のあとに、IHI出身の総裁が来たことと、民営化、そして、世界中で広がる通信事業の大変革の中で、マスコミ担当をさせてもらったのは、良い経験でした。2年半勤務のあと、転出してすぐに起こったリクルート事件前夜、電電公社からNTTへの変化には、すごいものでした。

東京駅からタクシーに乗って、電電公社の本社と言っても、通じませんでした。帝国ホテルの隣の隣と説明して初めて、なるほどということになりましたが、民営化後、NTT本社と言ったら、通じました。地味な公共企業体から、時代の先端を行くNTT,コマーシャルも突然派手になり、イメージチェンジは大成功だったのでしょう。

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