今日も思いつくまま・・2018年4月9日(月)

1年半の現場研修と、後期の集合研修3か月が終わったあとは、本社での研修。30万人以上の従業員がいる、当時の電電公社の中で、事務系本社採用は40人。入社した1975(昭和50)年は、第一次石油ショックのあと、売り手市場だった大卒採用が、石油ショックによる不況のため、内定取り消しになるなど、やや暗雲が出て来た時期でした。

本社での研修は1年3か月。そこでも、見習いとか、養生とか言われ、半人前の扱いでしたが、仕事は本社係員。やっと、社会人になれたという実感がありました。見習いとしての大事なミッションが、朝始業前の、机ふきと、朝と午後のお茶くみでした。おかげ様で、同じ濃さでお茶を淹れるやり方は体得しました。今でも役に立っています。

当時、商社では、新入社員でも、アシスタントの女性が二人つき、そのどちらかの人と結婚するというケースがあったという話を聞きましたが、電電公社では、局長など、幹部の秘書と、庶務の係員のほか、ほぼ男性でした。見習いが配属される係ではないと、末席の係員の仕事になります。個人茶碗の判別や、好みの把握も必要なスキルでした。

今だと、始業前の机ふき、お茶くみの準備は、不払い残業になってしまいますが、そのころは、始業前の準備仕事は当たり前と思われていました。始業時間以降は、普通の仕事水準を求められ、最初は戸惑ったものの、慣れるにつけ、今思えば、一人前に近づきつつあると思われたのでしょう。何度も繰り返した、失敗も勉強になっていたと思います。

現場では、交通ストの際、定期券のルートが止まっていれば、来なくても良いという暗黙の慣行があり、見習いでもそれに従いましたが、本社では、都心にあるということもあり、当然、なんとかして通勤しなければいけません。などと思わずに、ストが解除になり、動き出してから、出勤して、恥ずかしい思いをした記憶があります。行くのが当たり前ですよね。

1年3か月の、本社研修で、学生らしさと、現場で見聞き、体験したことの中に、普通ではなかったことや、社会では通用しないということがたくさんあるということを、身に染みて感じさせられたということだと思います。もっとも、そのあとは、電話局で係長を2年。初めて、部下を持つことになります。まだまだ。研修は続きました。

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