自分(の仕事)史 2021年6月21日(月)

海外勤務

(写真は、2006年ころの成田空港に駐機している、昔のJALマークを付けたジャンボ機です)

入社後3年目、週に数回、仕事のあとの時間、お茶の水のアテネフランセでフランス語の講習を受けました。そこそこには、勉強しましたが、留学レベルには達しったとは言えませんでした。

会社の指示で受けたフランス語の研修のあと、フランス政府給費留学生試験に挑戦することになりました。一次試験はどういうわけか受かりましたが、フランス語で行われた二次面接は難しすぎました。

同期が留学している時期に出向した通産省の中東担当として、在京大使館や海外マスコミなどとの接触もあり、突如、英語を使わないと仕事にならない環境に放りこまれてしまいました。

イラン革命に始まる中東情勢の混乱や石油の安定確保で、激動だった時代なので、通産省を代表して、海外からの英語取材に対応したり、大臣や幹部への直接説明をしたりと、度胸だけはつきました。

1982年春、電電公社に戻ってからは、プライベートで海外に行くことはあっても、仕事はすべて国内でした。留学できなかったこともあって、いつか、海外勤務してみたいなとあこがれていました。

総務部に異例とも言える、6年間在籍したことで、気分一新したいという思いもあって海外勤務を希望しました。キャリア年次的に中途半端な時期だったこともあり、本当かと聞かれた際、大丈夫と承諾しました。

海外勤務をするほどの語学力もありませんし、半信半疑ではありましたが、国内での人事構想とは別ラインで、いくつかの海外ポストが候補にあがり、成田空港が少し近づくことになってしまいました。

 

#海外勤務 #語学研修 #成田空港

一週間(6月13日(日)~19日(土))

 

先々週から続いている足指の痛みが完治しません。尿酸値が高いので痛風が原因なのか、歩き過ぎなのかわかりませんが、痛みが長引いています。多少回復したので、外出できるようにはなりました。

コロナ禍になって1年以上、毎日1万歩散歩のおかげか、足指の痛みを除き、体調がよくなっています。うがいや、丁寧な手洗いなどを励行していることで、風邪もひきません。悪いことばかりではないようです。

月曜日の昼食で大手町まで出かけました。歩く速度がゆっくりになっているので、流れを乱さないように注意をしながら歩きました。久しぶりの都心への外出だったので、いつもよりは疲れました。

いつもなら、後輩の昇進のお祝いで宴会をするところですが、このご時世なので、ディスタンスの取れた店でのお昼ごはんにしました。それでも、久しぶりの会食です。気持ち良く食事が出来ました。

水曜日には、早めの時間を設定し、アルコール抜きで、飛騨高山精進料理の店で、貸し切り状態での会食をしました。この一年、お店は大変だったと思いますが、元気で営業してくれていました。

ビデオ会議の予定も少なく、たまたま、打ち合わせなどでの外出の予定もなかったので、会食で2回外出したほか、先々週に引き続き、自宅で過ごしました。これまでにない長さになりました。

ほぼひとりごと 2021年6月20日(日)

松陰神社前駅

(写真は、東急世田谷線松陰神社前駅、下高井戸駅方面ホームの看板です)

東急世田谷線は、100メートルほどセットバックした今の三軒茶屋駅を出ると、あっという間に西太子堂駅です。三軒茶屋の商店街寄りが三軒茶屋駅、住宅地寄りが西太子堂駅。同じ駅みたいな感じです。

この先に、電車が信号で停まる踏切で全国的に有名(?)な若林踏切があります。今はだいぶ渋滞が改善されたみたいですが、環状七号線に残る踏切です。実際には踏切と言うより、電車も走る交差点です。

若林駅は玉電若林駅と呼ばれていました。この先、山下駅、松原駅も確か同じでした。この駅には売店があり、少年週刊雑誌が発売前日に並んだので、小学生の時は、自転車で買いに行きました。

自宅の最寄り駅は松陰神社前でしたが、玉電の駅間距離は短く、玉電若林駅もすぐ近くでした。松陰神社前駅までの間には空き地があり、野球をやっていて、ボールで近くの家のガラスを割ったことがあります。

次が松陰神社前駅。ラッシュ時には、車掌が3人乗る2両編成になることがあったのが、高校に通うころには、前払い方式で、運転手と車掌のいる前後のドアを入り口にした連結二人乗り方式になりました。

中側のドアは出口ですが、ラッシュ時間帯には定期券を見せて乗っていました。当然のことながら、ただ乗りもあったようには思います。毎日のことなので、決して実行しないようにしていました。

統一したロゴの駅名看板やサイネージなど、松陰神社前駅もずいぶんとモダンな感じになっていますが、駅の基本的な構造は変わっていません。この駅から松陰神社まで商店街を抜けて歩いて10分ほどです。

#松陰神社前駅 #連結二人乗り #世田谷線

自分(の仕事)史 2021年6月14日(月)

総務部6年生

1990年から1996年の間総務部で、阪神大震災や地下鉄サリン事件、日比谷からの本社移転などいろいろなことを経験しました。気持ち的に触れたくなかったこともあります。

総務部の忙しい会社にロクな会社はないと先輩から言われたことがありますが、残念ながら、6年間のほとんどを忙しく過ごすことになりました。越権行為と言われるよう仕事にも手を出しました。

周辺からの反対も押し切って進めました仕事もありました。よく言えば、枠を超えた仕事だったと思います。民営化して約5年でスタートした総務部での仕事、まだ、激動の時代、何でもありでした。

6年間で、上司の総務部長3人に仕えました。それぞれに特徴があり、信頼、尊敬できる上司でした。共通しているのは、バックアップをし続けてくれたこと。安心して仕事できました。

本社中堅幹部は、普通、2,3年に一度人事異動があります。在職6年間は異例の長さでした。何回も噂の辞令が出て、期待や覚悟したこともありましたが、実現しませんでした。

その間、株主総会事務局を6回勤めました。今でも株主総会前の緊張した時間を思い出します。すでに20年以上経過していますが、失敗する夢を見ることもあります。

総務部6年生もそろそろ終わる1996年6月、異動の話が具体化することになりました。そのまま残るという話もありましたが、意外にもニューヨークが新勤務先でした。

自分(の仕事)史 2021年6月7日(月)

頭の中が真っ白

(写真は、日比谷公園。当時、ビル内で頭の中が真っ白のパニック状態になり、右往左往していたNTT日比谷ビルが見えます)

大震災が発生してからしばらくの間、関西支社も本社総務部も頭が真っ白になり、パニック状態でした。何をしたら良いか、何を届けたら良いかも気づくことができませんでした。

社長の発案で、ヘリコプターをチャーターし、当座の食料として、おにぎりを積んだヘリコプターを飛ばすと連絡したら、具体的な物資や商品要望が次々と出て来ることになりました。

結局、ヘリコプターを2機チャーターし、飛行可能な昼間時間帯に、しばらくの間、大阪府八尾市の飛行場と神戸ポートアイランド間に一時間毎のシャトル便を設定し、人とものを運びました。

ヘリコプター定期便は、復旧や生活物品などの輸送や、支援スタッフの移動に使いました。いつ行っても大丈夫なように、物資の数量に関わらず、1時間毎の定期便として飛行してもらいました。

新幹線や高速道路が通行できないため、姫路や有馬ルートなどを通って、阪神間に入った設備復旧チームを中心に、全社をあげての電気通信設備復旧作業が始まりました。

本社総務部は、関西支社と一緒になってサポートしましたが、いろいろな行き違いや諍いなどもありました。即断即決に心がけ、ある程度のことは出来たのではないかと思っています。

ヘリコプターの確保や自宅に住めなくなった社員家族の住居や寝具など家財、道具の提供、電話局周辺の被災者への炊き出しなど、いろいろなことを数えればキリがありませんでした。