今日も思いつくまま・・2018年3月19日(月)

6月中旬の株主総会で退任になると、43年と少し続いた、同じ健保組合に加入して過ごした、会社生活がおしまいになります。43年前、入社してからのこと、1975(昭和50)年、三重県津電報電話局での研修で、ひと月の営業窓口での実習と、8月末までの3か月、線路と呼んでいる、設備部門の研修が終わりました。線路では、電柱に上ったり、故障修理なども経験しました。

マンホールの中にも入らせてもらいました。ほとんどが実習のためですが、たまには、実際の作業をやり、一人で故障修理に行って、試行錯誤ながら、修理が無事終わった時、さすがにプロですねと言われて、赤面したこともありましたが、スレート屋根をぶち抜き、あわや大事故という失敗もしました。幸い、途中でひっかかって九死に一生でしたが、修理と謝罪は会社持ちでした。

当時、国鉄は、列車の運転や、車掌業務を実習メニューに入れていたということです。一年目の夏以降は、営業部門に戻り、灰皿のある窓口で再び、来客と一緒にタバコを吸いながら、応対したり、まだ、完全にコンピューター化されていない料金計算や、滞納しているお客様への督促などのほか、電話帳掲載事務など、バックヤードを経験しました。

続いて、料金計算のため、交換機に付いている度数計(メーター)数値撮影や、前月と比較しての計算や、交換機が正常に動作しているかのチェックなどの、自動運用と言われている仕事、番号案内(104)や手動接続通話(100)などの電話交換の仕事を経験し、24時間サービスの電話交換部門では、泊まり勤務も経験しました。女性中心の職場、男性の宿直室は狭い部屋でした。

このころは、三公社五現業と言われた、半官半民の企業体にスト権を与えるかが大きな問題になっていたころ、一年目の暮れに、1週間以上におよぶスト権ストが行われ、国鉄が全部止まることになりました。電電公社の場合、交換機が主役ですから、電話はつながりましたが、手動交換や電報、故障修理などに影響が出ることになりました。

大混乱になる予定が、思ったほどではなく、スト権ストを契機に、戦後強力だった組合運動が、次第に終息へ向かい始めたような気がします。それまでは、本社研修での指導で組合未加入でした、スト権ストの際には、扱いに困ったと思いますが、そのあと、組合に加入しました。、すぐに組合に回収されましたが、数枚、スト参加の処分書をもらいました。そんな時代でした。

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