自分(の仕事)史 2021年8月9日(月)

マンハッタンのカフェで

(写真は新宿駅新南口にあるDean&Delucaのロゴ。都内に何軒かあります)

アメリカの中でも特徴がある早口のニューヨーク英語の中で生活できるかどうか不安がいっぱいでした。街に出た途端、聞こえて来るのは当たり前ですが英語ばかり。BGMのようで意味がつかめません。

日本語が聞こえてきたなと思って振り返ると、韓国語だったということもありました。文法も似ているので、音だけで聞いていると日本語と似ているように感じたのかも知れませんが、まったく、わかりません。

マンハッタンのカフェ、たぶん、Dean&Delucaだったと思うのですが、こちら側の英語に問題があるだけでなく、お店の側の英語を聞くことの方にも問題があるのではないかということに気づきました。

こちらの英語を何度も聞き返した店員が次に来た、東海岸のエリートのようなカップルともの同じようなやりとりをしていました。マンハッタンはそういうところなんだと思うと、気がラクになり、ホッとしました。

日本にいる時は、英語で話しかけられると頭の中が真っ白になって困惑したことがありました。こちらでは、その場の情景に応じて、何の話かをしているかを理解すればなんとかなるということです。

英語が上手と思っている日本人の英語が通じないという場面は何度もありました。中学や高校の英語の先生が使う正しいと思っている英語がまったく通じなかったという話を聞いたこともありました。

Dean&Delucaを見るたびに、マンハッタンのカフェを思い出します。飲み物とパウンドケーキを注文した際何度も聞き返され、絶望的になりましたが、この経験から学んだことでニューヨークくらしがラクになりました。

#Dean&Deluca #英語力 #マンハッタンのカフェ

自分(の仕事)史 2021年8月2日(月)

アパート探し

(写真は、最初に入居したセカンドアベニュー47丁目のアパート、ダグハマーショルドタワーです)

着いてからの最初の仕事は、アパート探し。子供はいないので、学校関係はなかったので、多くの駐在員が住む郊外ではなく、オフィスに通いやすいマンハッタンの高層アパートに住むことになりました。

マンハッタンのアパートは高値の花でしたが、借り上げ社宅にしてくれるので、夢の生活が現実になりました。家賃は安くはありませんでしたが、東京の外国人駐在員用アパートよりはだいぶ値ごろでした。

国連本部そばのセカンドアベニュー47丁目の角にあるアパートの家賃は、100平米で月30万円ほどで、買えば3000万円くらいだと言われました。家賃は東京の3倍、価格は3分の1くらいでした。

購入すると家賃補助が出ないという仕組みでしたので、最初から無理でしたが、その後の不動産バブルで不動産価格が高騰し、軽く1億円を超えることになり、まったく手が届かないことになりました。

オーナーが置いてあったきれいな家具やリネンを使って良いと言ってくれたので、ありがたく使わせてもらい、そのまま、まとめて引き取ることにしました。買い集める手間を考えると、ラクをさせてもらいました。

2年後、オーナーが戻るということで、借り上げ社宅家賃限度額の範囲内で、再度アパート探しをしました。日本人担当者のいる不動産屋さんには大変お世話になり、値ごろな物件を見つけました。

会社から歩いて10分ほど、売買価格は似たようなものでしたが、日本より広いアパートに住むことができ、電話などいろいろな手続きも済み、7年住むことになるマンハッタンくらしが始まりました。

#アパート探し #マンハッタン #ダグハマーショルドタワー

自分(の仕事)史 2021年7月26日(月)

NTTアメリカ

(写真は、右に見える黒いビル、当時、NTTアメリカが入居していた101パークアベニューの前で、数年前の夏に行った時撮った写真です)

無事にタクシーの支払いを済ませ、ホテルのチェックインをして、ボーイに荷物を持ってもらって、部屋に入り、チップを渡した時のホッとした気持ちとこれからどうなるのかという不安が混じった気持ちを覚えています。

ホテルの窓から見えるのは、ずっと昔から高層ビルが林立していたマンハッタンです。どうしても、不安な気持ちが募ってきました。最初のころ、まわりは泥棒と強盗ばかりではないかと思っていたくらいでした。

たしか、出勤は翌日からということで、NTTアメリカの後輩スタッフを呼び出して、夕食に付き合ってもらいました。この日から、2003年までの7年間を過ごしたニューヨーク勤務がスタートしました。

当時のNTTアメリカは、典型的なリエゾンオフィスで、主たる仕事はアメリカの通信事情や経済情勢などの調査と、アメリカに来るお客さまや出張者のアテンドや対応などが中心でした。

アルコールに弱く、ゴルフもやらず、英語もロクにしゃべれない自分が生きていけるか、自信は全くありませんでしたが、ビザも交付され、準備も着々と進み、ついにニューヨークに来てしまいました。

ニューヨーク勤務は、自分の人生にとって貴重な経験になりましたが、会社のキャリアとしては難しいところでした。当時、海外勤務は特殊な経験でしたので、主流が国内という点では有利ではありませんでした。

それでも、自分で選択した新天地での仕事とくらし、住めば都です。短期滞在とちがって、見るもの、聞くもの、すべてが刺激的な経験になりました。今では、ニューヨークは第2のふるさとと思っています。

#NTTアメリカ #101パークアベニュー #グランドセントラル

自分(の仕事)史 2021年7月19日(月)

チップで悩む

(写真は、マンハッタンセカンドアベニュー沿いの飲食店。チップが要らないのはファストフードかデリくらいでした)

JFK空港からタクシーはクイーンズからブルックリンをかすめて走ります。イーストリバーの下を通るミッドタウントンネルを抜けると、マンハッタンのミッドタウンの喧騒が目の前に飛び込んで来ます。

JFK空港からマンハッタンへのタクシー料金は定額になっています。当時は38ドルだと記憶しています。ただし、ミッドタウントンネルの通行料金と15%くらいのチップを加えて支払わなければなりません。

たまに、日本から来た人が、タクシーやレストラン、ホテルのチップを払わなかったとか、値切ったと自慢するのを聞きましたが、こちらの給与はチップ込みです。郷に入っては郷に従うようお願いしました。

しばらく経って、日本食レストランの従業員に聞いたのですが、固定給はなく、チップだけで生活しているとのことでしたが、チップはチーフがまとめて管理し、スタッフに分配するという仕組みだということでした。

日本食レストランだけでなく、他のレストランも、ホテルも似たような仕組みだったと思います。バスの運転席にもチップサンキューという箱がもありましたが、さすがにみんな払ってはいませんでした。

タクシーの場合は、料金に含めてチップを払いますが、ホテルやボーイなどには、1ドル札で支払います。キャッシュレスが普及した今でも、1ドル札を持っていないとチップを払う時、困ることになります。

足りなくて文句を言われたり、払いすぎてしまったということもありました。郵便や新聞配達、アパートの管理人などにも、年一回ですがクリスマスギフトを支払いました。最後までチップには悩みました。

#チップ #郷に入っては郷に従え #マンハッタン

自分(の仕事)史 2021年7月12日(月)

JFKから

(写真は、数年前、マンハッタンのシックスアベニューで撮ったものです。いろいろなタクシーが走り、SUVも増えました)

VIP扱いだと、ドアからJALのスタッフがアテンドし、入国もスムースに行きますが、普通は入国カウンターの長い列に並びます。他の便と重なった時など、荷物のチェックが終えて外に出るまで結構な時間がかかります。

外に出ると、出迎えの人がたくさん待っています。その中をかき分けてタクシー乗り場を探して、歩いていくのも一苦労です。JALのターミナルと言っても、いろいろな航空会社が使っているので、出迎えの人は多国籍です。

JFK空港で、JALとKAL(大韓航空)は同じターミナルを使っていました。ニューヨークのデリは韓国人が経営している人が多く、入国してくる人も、ここで働くぞという熱意がみなぎっているような感じでした。

JAL便が着くと、駐在員風の人や家族が多く、不安が顔に出てはいるものの、なんとなくのんびりしたムードでした。私も同じような表情でターミナルに現れたのだと思います。一気に籠の中から、外にでることになります。

慣れてからは、マンハッタンまでの移動に、空港バスや地下鉄を使うようになりましたが、最初はタクシーです。ガイドブックには白タクに気をつけろと書いてあったので、ドキドキしながら、イエローキャブを探しました。

シンガポール対岸のインドネシア領バタム島に行った時に、客引きしているタクシーしかいなかったことを思えば、どうということはありませんでしたが、見るもの聞くもの、すべてが不安の種でした。

日本のハイヤーより気軽に乗れるリムジンを予約すれば、名前を書いたボードを持ったドライバーが迎えてくれています。日本人のドライバーやリムジン会社も多く、慣れてからは重宝しました。

#JFK #ニューヨークタクシー #入国手続き

自分(の仕事)史 2021年7月5日(月)

ニューヨークへ

(写真は、現在、JAL便が到着しているJFKターミナル1。1996年の時は別のターミナルでした)

辞令が出るまでには、少し時間がかかりました。前任者の異動先との関係もあり、NTTアメリカの副社長としてニューヨークに行くことになりました。主な仕事はリエゾン業務と調査業務でした。

ニューヨーク勤務が決まってから、ベルリッツの個人教授に通いました。大して英語が出来もしないのに、これで役に立つのかなというカリキュラムと思い、あまり真剣に学習しませんでした。

ニューヨークで実際に使われている英語に接した時、実感することは出来ましたが、英語で十分コミュニケーションが出来るわけではありません。笑い話のような失敗談が山ほどあり、自信喪失しました。

赴任する前、すでにNTTアメリカで数年間勤務している後輩から、マンハッタンの対岸にあるニュージャージーのヤオハンのチラシをもらったり、ニューヨーク便利帳を教えてもらったりしました。

おしゃべりは英語が上達する必要条件だとか、行くことでブラックボックスがなくなるなどと先輩や友人から言われ、背中を押してもらいました。その通りだったと思っています。今でも感謝しています。

入社して20年、管理職としての仕事も経験し、自信を持って仕事をしていたつもりでしたが、ニューヨークではほとんどすべての経験がリセットです。海外生活ができるかどうか、不安でたまりませんでした。

ニューヨークは今まで4回行ったことがありました。笑顔で挨拶をしてくれた、入国手続きや税関検査などの担当官が一層大きく、威圧的に見えました。予約したホテルまでたどり着くまで不安なままでした。

#ニューヨーク #英語学習 #赴任準備

自分(の仕事)史 2021年6月28日(月)

シンガポールも候補でした

(写真は、赴任候補のひとつになったシンガポール。)

候補にあがったのは、ニューヨーク、ベトナム(ハノイかホーチミン)、シンガポールでした。当時はNTTグループが本格的に国際ビジネスに進出するという話もなく、どこでも良いなと思っていました。

当時のニューヨークは怖いというイメージが払しょくされてはいませんでした。また、アジアは、家事をメイドに頼まなければという話を聞いたこともあり、どこも100点満点ではありませんでした。

そのうち、住めば都と思えばという気持ちになってきました。積極的に主張した記憶があるわけではありませんが、候補の中で、規模が大きいニューヨークに赴任する可能性が高くなってきました。

この間も、総務担当部長として、株主総会の事務局や社長交替に関わる仕事などで忙しい日々が過ぎていきました。気がついたら、ニューヨークに決まっていたという感じだったと思います。

7年在職したポストだったので、余人を持って代え難しとも言われましたが、組織は脆弱ではありません。机を片付け、後任に引き継ぎ、みんなに行って来ますと言って、過去の人になりました。

国内での異動と違って、ビザの取得など単純に勤務地に行けば良いという具合にはなりません。スタッフがサポートしてくれますが、自分でこなさなければならないことも多く、英語と格闘しました。

一時は、本当に行けるかなと自信喪失になったこともありましたが、時間の経過につれ、本当にニューヨーク勤務になるという実感が出て来ました。顔は笑っていましたが、正直言って不安でした。

#ニューヨーク #ベトナム #シンガポール

自分(の仕事)史 2021年6月21日(月)

海外勤務

(写真は、2006年ころの成田空港に駐機している、昔のJALマークを付けたジャンボ機です)

入社後3年目、週に数回、仕事のあとの時間、お茶の水のアテネフランセでフランス語の講習を受けました。そこそこには、勉強しましたが、留学レベルには達しったとは言えませんでした。

会社の指示で受けたフランス語の研修のあと、フランス政府給費留学生試験に挑戦することになりました。一次試験はどういうわけか受かりましたが、フランス語で行われた二次面接は難しすぎました。

同期が留学している時期に出向した通産省の中東担当として、在京大使館や海外マスコミなどとの接触もあり、突如、英語を使わないと仕事にならない環境に放りこまれてしまいました。

イラン革命に始まる中東情勢の混乱や石油の安定確保で、激動だった時代なので、通産省を代表して、海外からの英語取材に対応したり、大臣や幹部への直接説明をしたりと、度胸だけはつきました。

1982年春、電電公社に戻ってからは、プライベートで海外に行くことはあっても、仕事はすべて国内でした。留学できなかったこともあって、いつか、海外勤務してみたいなとあこがれていました。

総務部に異例とも言える、6年間在籍したことで、気分一新したいという思いもあって海外勤務を希望しました。キャリア年次的に中途半端な時期だったこともあり、本当かと聞かれた際、大丈夫と承諾しました。

海外勤務をするほどの語学力もありませんし、半信半疑ではありましたが、国内での人事構想とは別ラインで、いくつかの海外ポストが候補にあがり、成田空港が少し近づくことになってしまいました。

 

#海外勤務 #語学研修 #成田空港

自分(の仕事)史 2021年6月14日(月)

総務部6年生

1990年から1996年の間総務部で、阪神大震災や地下鉄サリン事件、日比谷からの本社移転などいろいろなことを経験しました。気持ち的に触れたくなかったこともあります。

総務部の忙しい会社にロクな会社はないと先輩から言われたことがありますが、残念ながら、6年間のほとんどを忙しく過ごすことになりました。越権行為と言われるよう仕事にも手を出しました。

周辺からの反対も押し切って進めました仕事もありました。よく言えば、枠を超えた仕事だったと思います。民営化して約5年でスタートした総務部での仕事、まだ、激動の時代、何でもありでした。

6年間で、上司の総務部長3人に仕えました。それぞれに特徴があり、信頼、尊敬できる上司でした。共通しているのは、バックアップをし続けてくれたこと。安心して仕事できました。

本社中堅幹部は、普通、2,3年に一度人事異動があります。在職6年間は異例の長さでした。何回も噂の辞令が出て、期待や覚悟したこともありましたが、実現しませんでした。

その間、株主総会事務局を6回勤めました。今でも株主総会前の緊張した時間を思い出します。すでに20年以上経過していますが、失敗する夢を見ることもあります。

総務部6年生もそろそろ終わる1996年6月、異動の話が具体化することになりました。そのまま残るという話もありましたが、意外にもニューヨークが新勤務先でした。

自分(の仕事)史 2021年6月7日(月)

頭の中が真っ白

(写真は、日比谷公園。当時、ビル内で頭の中が真っ白のパニック状態になり、右往左往していたNTT日比谷ビルが見えます)

大震災が発生してからしばらくの間、関西支社も本社総務部も頭が真っ白になり、パニック状態でした。何をしたら良いか、何を届けたら良いかも気づくことができませんでした。

社長の発案で、ヘリコプターをチャーターし、当座の食料として、おにぎりを積んだヘリコプターを飛ばすと連絡したら、具体的な物資や商品要望が次々と出て来ることになりました。

結局、ヘリコプターを2機チャーターし、飛行可能な昼間時間帯に、しばらくの間、大阪府八尾市の飛行場と神戸ポートアイランド間に一時間毎のシャトル便を設定し、人とものを運びました。

ヘリコプター定期便は、復旧や生活物品などの輸送や、支援スタッフの移動に使いました。いつ行っても大丈夫なように、物資の数量に関わらず、1時間毎の定期便として飛行してもらいました。

新幹線や高速道路が通行できないため、姫路や有馬ルートなどを通って、阪神間に入った設備復旧チームを中心に、全社をあげての電気通信設備復旧作業が始まりました。

本社総務部は、関西支社と一緒になってサポートしましたが、いろいろな行き違いや諍いなどもありました。即断即決に心がけ、ある程度のことは出来たのではないかと思っています。

ヘリコプターの確保や自宅に住めなくなった社員家族の住居や寝具など家財、道具の提供、電話局周辺の被災者への炊き出しなど、いろいろなことを数えればキリがありませんでした。